余計なお世話。

最近どうにももやもやする日が続いている。

人はどんなに冷静であろうとしても、感情というものがあり、自分自身の見聞きしてきた経験の中で、主観で物事を見ることをやめられない。と、思う。

カレーを作ってくださいと10人にお願いしたとして、誰一人、同じ味にはならない。出来上がりは全てカレーなんだけれども、野菜の種類や切り方、炒める工程、加えるスパイスの種類や量…それぞれの作り方が存在する。

好みはあれど、全て美味しいカレー。どれも魅力的。何かの歌詞みたい。

きっと、失敗もたくさんすると思う。火の通しが足りなくて少し硬い人参とか、ほくほく感を楽しみたかったのに溶けてなくなっちゃったジャガイモとか。

その仕上がりに対して反省したり、次回はこうしてみようと改善策を考えたり。出来上がったカレーを冷静に見て、食べて、自分で調べたり誰かに相談したりして、より美味しいカレーを作る工夫をするのは作り手本人の意思と行動次第。

そのカレーが出来上がるまでの過程もきちんと見ず、味わいもせずにさっと見ただけで

「野菜が大きい、もっと小さく。」とか、「ジャガイモ溶けちゃってるじゃん、下手くそだね。」とか、「マズそう、捨てて。」だなんて、誰が言えましょう。

本人から直接相談を受けていないのだとしたら、なおの事。


自分の意見を持つことは必要なことだと思う。それを主張する、ということももちろん重要。

ただ、その発している主張の矛先はきちんと正しい的を向いているんだろうか?

その『的』となる一番の相手は『自分自身』なのでは?とわたしは思う。

多くの人が子どもの頃に「相手の立場に立ってモノを考える」と教わってきていると思う。「人からされて嫌なことは相手にもしない。」とも。

自分の言葉、行動が相手にとってどう捉えられるか。自分の言葉や行動を、言われたりされた側の立場に立った時にどう感じるか。

それは自分自身と向き合うこと。

自分が成長するためには自身で気付き、考え、行動すること。だと思う。

多くの人と関わっていく中で、傷つけたり傷つけられたり、あの時のあの行動は間違っていたなと、後になって反省したり後悔したりして成長していく。

成長するためにはたくさんの人達の助言や手助けが必要なのは間違いないと思う。(助言を受けて行動するかしないかは別として、助言を聞き入れる素直な気持ちもまた、とても重要な事。)

だけど、だからと言って「その人のため」にと自分の意見を勝手にその人にぶつけるというのは余計なお世話以外のナニモノでもないと、わたしは思うのです。その人の存在を否定するかのような言葉は論外である。



自分から好んで見ることはしなかったけれど、気付かせてくれることが多かった。自分自身の違う一面を見ているようで勉強になる事も多かった。その場の当事者ではないけれど、わたしにとってそこにいる彼らは『自分自身』だった。

未来の扉を自らの手で閉ざしてしまった彼女もまた、『自分自身』だ。



責任の所在を明らかにしようと多くの人が誰かを責め立て攻撃している。ターゲットが変わっただけで同じことを繰り返しているだけのような気がする。


本当に問うべきはみんな『自分自身』にじゃないのかな。


わたしは今、彼女から人生の大きな課題を与えられたような、そんな気がしている。あんなにまで多くの声や関心を集めた彼女には、人を惹きつけてやまない何かがあったんだろう。目に見えない大きな力により使命を与えられてこの世に現れたのかも知れないとさえ思っている。

彼女の笑顔はとてもきれいでした。




勝手ではありますが、

ご冥福をお祈りしますとともに、感謝の気持ちも捧げます。

近しい方々やファンの方々が、一日でも早く笑顔の日々に戻れますように。


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