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自分の鬱について考える①

 休職してからずっと、自分を責めているばかりでそれはそれできちんと自分と向き合っていないということではないか、と思いましてとりあえずつらつらと思うままに書いてみようと思います。まずは経緯と原因について。

 思えば、ここ数年とっくに崩れ出していた自分を見て見ぬ振りしてずっと突っ走っていたような気がします。最初に、付き合って3ヶ月で彼と同棲をはじめたことは私にとっては大きな出来事だったと思います。彼は一人暮らしが長いので家事をしてくれる彼ではありますし、すぐコロナが流行して外出自粛を叫ばれている時期だったのであのタイミングで一緒に住み始めたのは本当に良かったと思っています。

 ですが順調にとは言えませんでした。4月からの彼の転職に合わせ引越し先を決めなければいけません。物件を決める時、家電を決める時、家具を買う時、ちょっとしたことで彼と揉め喧嘩をしました。お互い緊張と気負いと疲れがあったと思います。引っ越してからは以前のように落ち着いた関係に戻りました。むしろ喧嘩したおかげで以前より更に仲良くなったと思います。ですが一緒に暮らし始めて、きちんと家事をしなければ、きちんと料理を作らなければ、と気負いすぎていたかもしれません。同時に通勤時間も変わりました。片道15分だったのが通勤ラッシュの渋滞もあり高速道路を使って1時間になりました。下道だと2時間です。最初は下道で通勤していましたが、毎日の渋滞に疲れ高速道路を使って通うようになり、それは少し楽になりました。

 職場環境もコロナ渦と並行して変わっていきました。いえ、コロナ前から職員の連続した産休育休で職員が増えましたが人間関係も変わり、来院される患者さんの数も圧倒的に増え、そして増えると同時にトラブルも理不尽な苦情も職員のミスも増えました。

 そんな中、祖母が亡くなりました。私はおばあちゃん子でしたが、クセの強い祖母とは何度も衝突していました。可愛がってもらっていましたが、晩年は祖母とのトラブルが原因で一人暮らしをはじめたり、病気を理由に何もせず甘えきった祖母にイライラしたりしていましたが、母の母だけあって、家族のトラブルの一番の理解者でもありました。体調不良ではなく、持病の薬の管理でよく入退院をしていましたが、とても元気でした。気分転換に入院しようというお医者さんだったので良かったと思います。ある日突然、入院中に夜中にトイレに行こうとしたのか、廊下で倒れているのが発見されました。巡回していた看護師さんが発見した時にはもう冷たくなっていたそうです。

 祖母と最後に会った時、「とにかく体が辛い」と繰り返す祖母に「長生きしてもらわなきゃ困る。まだ私の結婚式も出てもらわないといけないし、孫も抱っこしてもらわないといけない」と励ましたのが最後の会話になりました。体力的にもコロナもあって結婚式は難しいだろうなとは思っていましたが、いつもそう言っていた元気な頃の祖母に戻ってくれればという私の勝手な願いだったと思います。祖母もそうだねと言いながら難しい顔をしていました。

 コロナワクチンがはじまりました。休日やシフト外も市のコロナワクチンの集団接種に借り出される日が増えました。まだはじまったばかりの頃は体制等も整っておらず、不慣れなことばかりでトラブルも絶えず、気の強い看護師と保健センターの職員との衝突の板挟みにあったりしてました。毎日一緒に仕事する人も市内の病院の職員が大勢入れ替わり立ち替わりしていて、楽しい日もありましたが緊張の連続でした。

 この頃から、仕事を辞めたいと悩むようになったと同時に、そんな自分の弱さを責める日が続いていました。皆頑張っているのに、普通に仕事できているのに、私だけ辛いと思っているなんてどうして私はこんなにも弱いんだろうと。先に身体が限界を迎えました。ひどい頭痛や体の痛みで寝込む日が増えましたが、仕事を休むわけにも行かず鎮痛剤や片頭痛薬を毎日規定以上の量を飲んで出勤していました。体も弱っていたのか風邪を引いたり酷い膀胱炎が悪化して腎盂腎炎になったりしましたがそれでも半日や一日だけしか休まず病院に行って薬を飲んで出勤していました。職場の職員の「あん子さんは身体が弱いから」「休むのはしょうがないと思ってるから変わるけど私は快くはシフト変わってあげられないっていうのだけは覚えていてほしい」「私は別に熱があっても出勤してたけどね」と言われた出来事があり、皆辛くても出勤してるんだからと意地になっていたと思います。

 そんな中で毎日職場で患者さんに怒鳴られたり理不尽な酷い目に遭ったりとしたトラブルが重なり、次は眩暈と難聴になりました。メニエールと診断されそれでも薬を飲んで出勤し、この頃から車の運転を無理矢理していて何度も事故に遭いそうになったり、どこかに車をぶつける、途中でもう運転ができず路肩に止め動けなくなる回数がかなり増え、流石に酷い時は休むようになりました。

 直後また別の職員とのトラブルがありました。余りにも忙しいので診察時間以外にも患者さんの診察や対応をしており、職員が数人で交代で残業や休日出勤をしていたのですがその取り決めに関する行き違いのトラブルでした。以前皆が納得できるようにと考え揉めに揉めて二転三転して決まったそれが間違いで無駄だったのだと、そしてそれを酷く叱責され怒鳴られ今まで言わなかった理由を「だってあん子さん何か言うとすぐ泣くじゃん」と言われてしまいました。確かにここ数年、その泣くじゃんと言った彼女が就職したあたりから、酷く涙もろくなっていました。患者さんの前では泣きませんが、同僚等からのそうした叱責のたびに泣いていました。

 彼とも一切喧嘩せずに暮らしてたかというとそうではありませんでした。普段はほとんど喧嘩はしませんが、数ヶ月に一度の喧嘩で彼に避けられ口を聞いてもらえなかったりして私が実家に帰ることが何度かありました。その度にもうダメかもしれない。彼は別れたがってるのかもしれない。と落ち込んでいました。彼の機嫌がなおった時を見計らって帰る、というのを繰り返していました。同棲して三年が経ちましたが彼の方から一向に結婚の話が出ず、私と結婚する気があるのかとモヤモヤしながらも切り出せない、そんな日が続いていました。

 私には人の顔色を伺ってしまう、異様に気遣ってしまうというクセがあります。子育てと生活に追われ常に慌ただしく不機嫌な母と、穏やかですがニコニコしていたと思ったら次の瞬間突然ブチ切れる父、気まぐれで機嫌がコロコロ変わる自分が一番の祖母、その家族の影響か家の中では常に不機嫌で喧嘩の絶えない長姉と次姉、その二人に八つ当たりされて更に八つ当たりしたり憂さ晴らしにいじめてくる兄がいました。こうやって書いてるとカオスですがもちろん皆に遊んでもらいましたし可愛がってもらいましたが、常に誰かと誰かの間に立ったり顔色を伺って生活していました。怒っている人、不機嫌な人がいると異様に緊張して顔色を伺ってしまう私が未だにいます。

 いつも何かでいっぱいいっぱいになっている母を見て、母も「あん子だけはいい子でいてね。(兄弟の誰かを指差して)あんな風にならないでね」と言われ育ったのでいつもいい子でいなければと気を張っていて、「いい子だね」「落ち着いてるね」「大人っぽいね」と言われるのが嬉しい子供でした。

 子供の時から身体が弱く、すぐに風邪を引いて寝込むのでいくつかのワクチンが受けられなかったと言われました。高校生になってやっと打った記憶があります。そのワクチンを打ちに行くついでの健康診断で、糖尿病予備軍だと言われました。祖父も痩せていましたが糖尿病で、暴食も間食もせずお酒も飲まない人だったのに40代で肝硬変からの肝臓ガンで亡くなっています。仕事のストレスが原因だと言われていました。そう言った体質、家系なのだと思います。母も糖尿病です。

 糖尿病患者はうつ病になりやすいそうです。私の場合も関係はありそうな気がします。どちらかが悪化すると並行してもう片方も悪くなってる気がするので。BMIが20か21あたりを行ったり来たりしていますが、体脂肪が30パーセントあるので、体重は気にせず体脂肪を25パーセント前後にまで落としたいなぁと思っています。と言いつつ今日も中華料理を野菜たっぷりと言いながらデザートまでしっかり食べてしまいました…。

 なんだか力尽きてしまったので、続きはまた後日。

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