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自分を責めてしまう癖 矯正中。

私には、ミュージシャン友達Aがいる。

Aはとても明るくあっけらかんとしていて、人に意見をはっきり言い、1人でやりたいことを着実に形にしてきたし、人柄と実力から人気もある。

あまり好きな言葉ではないけど、かなり平たく言うと、成功している。

と言っても、本人にそんな気はなく、やりたくないことはやらず、やりたいことだけやって、ただ楽しんでいるだけだと言う。


そのAと、昨日一年半ぶりに会った。

この一年半でAは一層大人になったように感じた。

「言いたいことはなんでもその日のうちに言う」
「こういう仕事をとってきて、こういうことがあって」
「1人で全部してるからストレスフリーで何も考えてない、自由」
「あんこ(私のこと)、こういうことしてみれば?」

その正直さや判断力、恐らく色んな経験をして1人で築いたたくましさ、発想の柔軟さ…

Aはまるで、私がなりたかった姿を体現したよう。


この一年半私は人との関わりをなるべく持たないようにしていた。バイトも、数ヶ月間してただけ。
でも、最近ようやく気持ちが外に向いてきて、音楽活動を再開したいと思い始めたり、人に会おうという気になってきた。

その中で久々にAに会った。
沢山笑い、楽しかった。
でも、何かザワザワしたものが胸に残り、意識がずっと違うところに浮いているみたいになって、頭が重くて苦しい。

この感じ、知っているぞと思った。
いつも自分を責めた時になるヤツだ。

このままコレを見ないフリして放っておくと、段々深刻になっていくことを私は知っている。

だから、できるだけ早い段階でこの正体を解明する必要があった。


私のなりたい姿を体現したようなAと
今からまた再出発しようとはしているものの、
Aと比べると社会性も自立度も乏しい自分。

Aは結婚もして、自分で考えながら、自分の力で楽しく生きているのに、
私は頻繁に母と外食しては奢ってもらって家で寝転がってドラマ見たり、音楽したとしても、かなり気まま。

「Aはこうなのに、自分はこう」

しかも、この一年半で自分のことをわかったような気がしていたのに、久々に外の人と会った途端にまたブレてしまった。
またそうなってしまったことも、残念に思った。

これはいけないと思い、整理したくて母と話をした。

「私好きな友達と会えて楽しいはずだったのに、またこんなこと思ってしまっていたみたい…」

そしたら母は

「そうやってあんこは中学生の時から、自分の辛い部分を見つめて自分の力で前に進もうって頑張ってきたんだから、まずそれが強くて凄いこと。まずはそれを愛おしいなって思ってあげて。
Aの幸せ=あんこの幸せな訳がないし、Aと全く同じになんてなったらおかしい。あんこには、あんこの幸せがある。
その繊細な部分があるからあんこにしか表現できない音楽もあるし、素敵なんだよ」

と、他にも沢山、我に帰るような言葉をかけてくれた。

そういえば私は人と話す時、相手に気が行き過ぎるあまり、意識が完全に相手に向いてしまって自分がお留守になることがある。
その結果、相手100:自分0 の構図を生み出してしまう。

そして、知らない間に正しさの基準が相手になって、自分が大事にしてたことや、自分の感情がわからなくなる。

今回もそう。
Aは自分のなりたかった姿だけど、今の自分からは程遠い。
だから「Aは凄い」=「自分は凄くない」になり、自分の正しさがAで染まってしまった。
結果的に自分を責めた。

自分の外に出ないことが課題なんだと思う。
自分の外に出てしまうと、外側しか見えなくなって、自分のことが全くわからなくなる。
自分は常に自分の内側に置いておく。
自分がちゃんと自分の中にいるか見守る。

緊張する相手や、好きだと思う人ほど嫌われたくないので、相手100になりやすい。

こうやって、今私は特訓を重ねてるんだと思う。
だから、急にブレない自分になれなくてもよくて、やってしまったら気付いてを繰り返しながら、少しずつ癖を治していきたい。

それに私は、この脆いからこそ豊かな感受性で作ってきた歌を、これから届けていきたい。
同じように頑張っている人に届いたらなおさら嬉しい。

まずは私が私の中にちゃんと在ること。

自分以外の何かになろうとしないこと。

その状態で人と出会い、歌を楽しむこと。



忘れないように、ここに記録しておこう。

散文・長文ですが、もし読んでくれた方いたらありがとうございます。

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