自由には責任がある

社会人になってビジネスマナー的に学んだもろもろの中、かなり強く言われたことは「遅刻厳禁」という話。社会人として、遅刻は絶対やっちゃいけない、信用問題に関わる、人間失格くらいに強く言われたような記憶がある。

そしてごく最近のこと。「今どき『遅刻するような人間は大成しない』みたいな話を最初にするようなビジネスマナー講座…」と、それを揶揄するような表現に出会った。それは「遅刻する人間=人間失格」という図式に対する批判とも取れた。

でもさ。

ビジネス云々置いておいてもさ。

単純に、遅刻されるのって、嫌じゃないですか?

普通に、連絡もなしに待たされるのって、苦痛じゃないですか?

私は無意味に待たされるの嫌だよ。

待たせるのも嫌だけど。

この「遅刻」に対する感覚は、人それぞれだと思う。私の感覚では「5〜10分位は許容範囲、でも15分以上とか遅れるならそれなりに連絡欲しい」というイメージかなと思う。

毎度毎度遅刻する人。だったら、遅刻しないで来れる時間にアポ取ってくれ。

「時間に囚われる必要ない」的な、自然派系の人。30分でも1時間でも遅れること自体を問題視してない人。だったら、来れる時間言ってくれ、と思う。

時間にルーズ。私を待たせる人々、そこに何も感じてなさそうに見える人々。

そこに苛立ちを感じてしまう私。

それは、ひいてはそこに「大切にされてない自分」を、感じ取ってしまうからなんだろうな。

待っている自分の時間を、ないがしろにされている感じ。
私なんて待たせてもいい存在と思われてるんだろうな、という、自己否定の気持ち。

そんな卑屈な気持ちが待たされてる自分を襲う。

きっと本当は全然、関係ないのにね。

遅れる人には、その人自身の事情、さらには問題があるのだと思う、意図的にも無意識的にも。

遅れることで注目されたい人。
遅れることで自分の存在を確かめたい人。

そんな各自各自の事情に翻弄されるような、そんな自分はもう要らないから。

時間はそこそこ守れる人とつき合いたい。
時間にルーズな誰かを責めない代わりに、自分のことも責めない。
価値観違う人に、奢る必要も卑屈になる必要も、ない。

でも本来、もっとすごく単純なこと。

「約束破られたら、悲しくないですか?」

頭で考えすぎたり理屈こねすぎたりすると、大事なことを忘れてしまいがちになる。

待たせるのも待つのも嫌だよ。

絶対遅刻はダメって話じゃない。時に不可抗力的なことだってある。そしたらその時はそれなりに連絡取るなりアフターフォローしてもらえればいいだけの話。

私達は人間だから。

そこは最低限のマナー、互いに持ちつつ気持ちよく付き合っていきたいよね。

そう、自由に生きるってことは、自分勝手に生きることじゃなく。

何かしら自分なりの節度を持って、協調して生きることだと私は思うから。

自由には責任がある。

私はそう思うよ。

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