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つぶやきじゃ文字数足りないのでこちらで書き殴ります。

大切な人を失うと、
息苦しくて何もやる気が起こらなくなって勝手に涙が溢れて来て、日常から色を失うけど、

それは心が傷を負ってしまってるわけで、

そしてそれは希死念慮を持つ人や鬱の人が普段感じている感覚なのかも知れない。

と思ったら、
それってそーとーしんどいだろな、と思う。


体は健康だけれど心はずっと生き辛さを抱えていて、
何度も自殺未遂をしながらも踏ん張って生きていたけれどついに命を絶ってしまった妹と、

遠方から葬儀に駆けつけて悲しんでくれるような仕事仲間や沢山の友人に恵まれ、充実した日々を生きて来たけれど、
病に倒れ最期は家族に看取られながら逝ったイトコと、

どうしてもイトコの方が無念で苦しくて生きたかったんじゃないか?
と思ってしまっていたんだけと、

この間のつぶやきの、
(自ら命を絶った妹の命をイトコに交換してあげたかった。)
という発言はとても軽率だったと反省しています。

心の病も充分に痛かったんだと思う。

どちらがどれだけ苦しかっただとか幸せだったとかを比べるのは無神経で横暴な話で、

妹は自分の、自分だけの命を精一杯に生きただけで、
その命は誰かに交換したりするもんでも、勿体無いと言われるものでもないはずだよね。

いつもながらのウザい姉でごめんね妹よ。

そう、
あれは、彼女達の彼女達だけの命であり人生である。
それをただ生きていただけ。

彼女達の命が消えてしまって、
とても悲しくて切なくて苦しくて悔しくてたまらないけど、

それで私が情緒不安定になってしまって家族や子供達を心配させてしまったり、
日常生活が疎かになってしまうのは、
何だかやっぱり違う気もする。

これはまだ自分の中で全然まとまってない考えで、この先まとまらないかもしれないけど、

私がどんなに彼女達の事を想像したりしても、
それは全て私自身が作りあげているものであって、
彼女達には関係のない事なんだ。

生きていたうちは、彼女達の人格があるから、「あなたはこうでしょ?」と勝手に想像しようなんて思わなかったけと、
(芸能人だとかに勝手な理想押し付けるのも違うよね。すごくやりがちだけど。)
生を失うと、
そこからはもう彼女達は私の心の中にしか存在しないような気がして。

だから勝手に、
「どんなに辛かっただろう、何か出来ることがあったはず、変わってあげたかった」
などなどと彼女達の気持ちを想像して悲しんだり、自分を責めたりする。

そうやって悼む気持ちも大切な事だけれど、

けれど死してもなお、どこかの世界で彼女達が生きているのだとしたら、私がこんなに悲しんでいるのも、
どうして先に逝ってしまったの、苦しいよ。
という言葉も、
「そんなの言われても困るよ〜」と思われてしまう事なのかも知れない。

今はどうしても、
自死は辛かっただろな、
癌は痛かっただろな、
という故人に対しての悲しいイメージが湧いて来て、我が事のように苦しくなってしまうけど、
私が勝手に苦しんで可哀想な存在にしてしまって泣いてばかりいてはいけないな。
と思う。

何度かnoteにも書いた事があるけれど、
私は心に大きなダメージを受けると、癒えかけていた妹の死を引っ張り出して、
そのダメージと掛け合わせてしまうクセがある。
クセというか、あの妹の死の記憶が私の中では大き過ぎて、小さくはなっているけれどその源泉はこの先もずっと枯れなくて、
そこに何かのきっかけが呼び水になって吹き出してしまったりする。

そうなっている事には自覚はあるので、
いつも、
「一切の悲しみを妹のせいにしちゃいけない」と自制するんだけど、
飲み込まれちゃう事も多くて、今もちょっとしんどい感じです。

逆に考えると、めちゃくちゃ辛い時に妹の事を思い出す。って事は妹に甘えている、という事かもしれなくて、
それで妹が私の悲しみの前に立ちはだかって心の防壁になってくれているような気もする。


なんかまとまらないけど、しかも雑記というレベルじゃない文字数になっちゃったけど、

私の想像のではなく、本来の彼女達のように、
私も私の人生をしっかりと生きないといけなあな。と思います。

ん〜、分かってはいるけどやっぱサミシイ❗️

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