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こころの手触りを確かめる

先日、東畑開人さんの著書「心はどこへ消えた?」を読んだ。

コロナ禍になり、人の心の姿がさらに見えなくなってしまった。そんな時代において、改めて人間は心をどのように扱うべきなのか、ひとりの臨床心理士として相談者と接しながら考えたことをまとめた一冊となっていた。

「心はどこへ消えた?」と似たタイトルがついた本に、「なんでも見つかる夜に、こころだけは見つからない」という本がある。こちらも東畑さんが書いたエッセイ本だ。

2021年に発売された本は「心」で、2022年に発売された本には「こころ」と書かれている。漢字とひらがなの違いは、扱う対象をどう捉えているかに大きく関係する。

「心」は広辞苑に載っている。それによれば、「心」は非常に多義的で、隅から隅まで読んでも私がほしいとする答えには辿り着けない。

哲学の分野でも「心とは何か」は度々重要なテーマとして取り上げられるが、これまで誰ひとりとして、「心」について明確な答えを出すことができた人間はいない。臓器としての「心臓」は別として。

言葉で定義できず、概念としても成立しない、ただ身体的な意味や役割を述べることしかできない、それが「心」というものだ。

しかし、生きていると自分のこころに向き合わなくてはならないタイミングが度々訪れる。何もかもわからないのに、それでも知るということを絶えず続けなくてはならない。それはとても辛いことである。自分ですら、自分のこころを読み違えることがあるからだ。

私は自分のこころを手のひらに乗せて観察できるものだと考えている。形はその時々で異なるが、納得できる形をしているか、腐っている部分や欠けている部分がないかを、感情が発生するときに確かめている。

こころはとても繊細で、手間のかかる生き物。お世話をできるのは、こころの持ち主ただひとり。観察して、なんらかの対処ができるのも持ち主だけ。何をしても腐っていってしまうような自分自身の魂を見続けていると、さらにこころが傷んでいくような気がする。

別のパターンもある。手間をかけても腐り続けていたが、諦めと共に手放したら少しずつ元気を取り戻していたケース。よく言われる「時間が解決する」パターンだ。

つまり、こころの治癒方法はひとつではない。すべての手を止めて休むことがベストであったり、がむしゃらに何かに取り組むことがベストであったり、その人が抱える問題とその深さによる。

しかし共通していえるのは、頑張ってはいけないということ。頑張りは問題の解決を無視して進められることが多い。また、素早く対処することがいつでも最善であるとも限らない。

こころがうまく機能してくれないときは、手のひらに乗せてじっくりと観察してみる。そして少しずつ確認していく。見た目だけでなくて、叩いたときの音や触ったときの温度、質感なんかも。状態を正しく把握するには、ひとつの角度からの情報だけでは不十分だ。

そして焦らないこと。それでいて、時間が自動的に解決してくれるとも思わないこと。こころの回復は非常に難しい問題で、回復後が治療前と同じ状態になるとも限らない。そのことも覚えておかなくてはならない。

そうすれば「心はどこへ消えた?」の問いに対する自分の答えが多分見つかるはず。

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