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やがてマサラ最終回 ひとりで進め

必要なときに必要な人に会える。

ずっと昔、インド師匠であり、尊敬している方に言われた言葉です。

本当にその通りだなと20年近く経ったいま思います。振り返ればいつも絶妙なタイミングで、そのとき自分に必要な誰かとの出会いがあり、なにかを前に進める起爆剤になってきました。

始まりがあれば終わりもあって、なかには後味のよくない終わりかたをした出会いもあります。大人になったなと思うのは、なるべくなら心地よい関係をずっと続けたいと願うようになったことです。

男女の付き合いだけでなく、ありとあらゆる縁は、たとえ両者相入れない状況になったとしても、単純な斬り捨て御免ではないのだと思うのです。私が大切に想う人たちはみんなインドで繋がっています。インドを愛する理由はたくさんありますが、一番根っこにあるのは、その大切な人たちとの出会いです。

ハイデラバードの映画村を訪ねたブログ記事をきっかけに、2018年6月、ほとんど成り行きで15名のお客様とご一緒にインドを訪ねるツアーを実施して14年ぶりに添乗員に復帰。おかげさまでこれまでたくさんの方とインドを旅しています。現在この状況でツアー自体はできていませんが、縁あって出会えた皆さまのインドへの熱を、そして私自身の熱を燃やし続けることが、自分のミッションだと考えています。

歪(いびつ)さとともに

私は長らく、どんな局面にあっても「自分は傷ついている」ということを認められない人でした。

この私ともあろう者が、そんな些細なことで。

強烈なプライドだけであらゆる苦しさを乗り越えてきたように思います。強いとかパワフルとか、自分を評するそんな言葉が好きでした。でもそれは強さというよりは、自分ときちんと向き合わずにきただけなのかな、といまは思います。

小さな積み重ねに心身ともにメッタメタに傷ついているのに、それを認めたくない。なぜなら認めた瞬間によよと崩れ落ちてしまうから。倒されるのはヴィランと決まっているでしょう、私はヒーローでいたいのに。

人は誰でもどこかに歪(いびつ)さを抱えているように思います。

私の歪さは、そのメッタメタの傷を薄目で遠目に眺めて慄きながらも誰にも助けを求めずに、ひとりで進もうとしていたこと。

それでもひとりで進む

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ある日、ふいに差し出された手を掴みました。涙が出そうに大きくて、そのままその手にしがみついてしまいたくなりました。なんの傷もなく艶々としていたころなら、手に手を取り合う美しい夢を見ようとしたかもしれません。

でもね。半世紀近く生きてきた私の手は、あんなこともこんなことも、そんなことも掴んでは離してきたごつごつした手です。しがみつく相手にとってはとても重い。そして頼りたいと思ったが最後、きっと一歩も歩けなくなる。そういう人なんだ、私は。

ああ、歪な手だなあ。これが歪ということなんだなあ。

そんなことが頭を駆け巡って、くるっと背を向けました。

自分のどこがどう歪なのかを知ることと、その歪さとどう付き合い、なにを欲しているのかを知り、幸せに生きていく方法を考えるほうが、どうにもならない状況を恨み嘆くよりもずっと大切で意義あること。

そこに他人は究極には必要なくて、ひとりで気づき、受け止め、掴んでいくしかないのだと、思います。

だからひとりで進む。

ほしいものが分からなければ永久に見当違いの宝探しをし続けていきます。他人の芝生はいつまでも青く見え続けるし、自分には何もないといじけ続ける。そんな繰り返しはできればもうしたくないよ。

人生は延々と続いていくバタフライ・エフェクトの集大成なのだと思います。大昔の出会いも、四半世紀近く経ってからの再会も、大きな手に委ねられなかったあの日のことも。

願わくばその蝶々の羽ばたきが、自分にとって、そして関わる人たちすべてにとって、よりよきものであってほしい。誰とも争いたくないし、自分を含め誰も傷ついてほしくない。

お守り

自分の半生を振り返ってみて分かったこと。たくさんの偶然が重なって、私はちゃんと、必要なときに必要な人に会えています。転機となった出会い、救われた出会い、ちょっとヒリヒリする出会い、そのどれもがいまの私を形作っています。大いに助けられたし、こちらが助けたこともあるでしょう。ありがたいことです。

24年前に初めてインドの地を踏んだとき、なにがどうなったのかまったく覚えていないけれど、たぶん、落ち込んでいたか、ぶりぶり怒っていたのだと思います。まだ青臭い若者だった大きな手の持ち主に別れ際に手書きの小さなお守りをもらいました。

それからいろいろあってお守りのことはすっかり忘れてしまい、私はいまだ、長いこと付き合っている手のかかる恋人みたいなインドとすったもんだやっています。

処分しようと束になっていた旅の記録のなかから、大切にしまい込んでいたお守りがある日ひょっこり出てきました。まるでタイムカプセルのように。

やっぱり離したくなかったなぁバカだなぁと凹みながら過去の一大整理整頓をしていたタイミングで、なまなましくその感触を覚えている大きな手がかつて書いた、美しい文字と優しい言葉が綴られたお守り。20数年後の私がいま一番ほしかったもの。

ヒーローはひらりとインドに降り立つ

1番目のヒーローに12年間言い続けた「いってらっしゃい」に笑顔で「おかえり」を言えたことがありませんでした。ヴィランはおらず、誰も悪くなくて、ただ、どうにもならないことでした。

自分より強いなにかに圧倒されたい。もし私がヴィランだったら、ヒーローに倒される最期の瞬間、安らぎを得るのではないかと思うのです。だからその安らぎのためにいまは手を離そう。

私のヒーローは、インドの上空から丸腰であの多様性と混沌のなかに降りたって、にこにこ楽しみながら、しぶとく生き抜ける人。千里先の光のなかで、よく働いた手と手を重ねたい。私がほしいのはそれだけ。お金では買えない。

いまは無敵の鉄人ヒーローの「ただいま」を待とうと思います。それまでは誰にも倒されない。

Ekla Cholo Re ひとりで進め

ベンガルの詩聖ラビンドラ・タゴールの有名な歌『Ekla Cholo Re(ひとりで進め)』。この歌を知ったのは佐々木美佳さんの監督作品『タゴール・ソングス』でのこと。このときの興奮はこちらで書いているので、よろしかったらご一読下さい。

イギリス植民地支配への抵抗から1905年に生まれたこの歌は、100年以上の時を経ても若者から年配者まで歌い継がれています。自分の足元を固めて、小さくていいから一歩ずつ歩いていこうと決めたタイミングでこの映画を観て、以後、私にとっても人生のテーマソングになっています。

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Ekla Cholo Re ひとりで進め
もし君の呼び声に誰も答えなくても ひとりで進め
ひとりで進め ひとりで進め
もし  誰もが口を閉ざすなら
もし 皆が顔を背けて 恐れるのなら
それでも君は心開いて
本当の言葉を ひとりで語れ
もし君の呼び声に誰も答えなくても ひとりで進め
もし 皆が引き返すのなら
君が険しい道を進むときに
誰も気に留めないのなら
茨の道を 血にまみれた足で踏みしめて進め
もし君の呼び声に誰も答えなくても ひとりで進め
もし光が差し込まないのなら
嵐の夜に扉を閉ざすなら
それでも君はひとり雷(いかずち)で
あばら骨を燃やしながら 進み続けろ

起きているすべてのことは、私を美味しい料理にするためのスパイス。ときに苦く、ときに辛く、ときにしょっぱく、ときに甘酸っぱく。絶妙なバランスで私を彩るための。

明日もドヤ顔で笑っていたいのです、私は。

そうやってときが流れて、あなたも私も、目の前の刹那を必死にむさぼっていって、あの音と匂いと色彩の混沌のなかに心地よく埋もれて、そして。

やがてマサラに染まりゆく。

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