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やがてマサラ #15 ジョグジャカルタの夜明けの月

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? 生い立ちから書き始めたこのエッセイ。人生の迷子は大放浪時代に突入しました。

ぐるぐる放浪生活

ヒマーチャルの旅のあとは、縁あってバンコクや東京でライターの仕事を続けたり、古巣の旅行会社からお声がかかるとインド添乗をしたりと拠点の定まらない生活を続けていました。

そのときどき、いくばくかの日銭を稼いでは、どこかに行くことばかり考えていました。立ち止まることが怖かった。

ベンに最初に会ったのは、タイ北部、ラオスとの国境に向かうバスの中でした。ギターを抱えたスナフキンのような西洋人がいるなと思っていたら、翌日乗り込んだラオスのメコン河下りの船にも同じ人がいました。

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舳先でギターを弾いていたので、悠久のメコン河の流れに退屈しきっていた私はもちろん乱入。カナダ人のミュージシャンだといい、よくある旅人同士の他愛のない話をしました。

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同い年、幼いころに外国ですごした経験、屁理屈をこねまわして人生を語るちょっと青いところなど、似た者同士というのか、とても気の合ったベンと私は、その後も2、3日おきにメールのやりとりをしては、いまどこにいてなにをしているというような近況報告を続けていました。

その後、カンボジアで再会。ベンの友だちと3人でバイク3人乗り、アンコール遺跡をあちこち周遊。青春だなあ。

旅は道連れ

その後もベンとはことあるごとに各地で合流しては遊んでいました。バンコクからほど近いサメット島に向かい、愉快なアーティスト仲間とすごしたり。

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毎晩ジャグリングに興じたり。

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「このあとしばらくインドネシアのガムラン奏者の家に行くんだけど、来る?」

そんなお誘いに、ふたつ返事で乗りました。インドネシアは学生時代の専攻地域でもあり、伝統音楽でもあるガムランは何度も聴いたことがあったので、その奏者の家に滞在できるのはとても魅力的でした。

バンコクでいくつかの取材を終えて、ベンと待ち合わせたジョグジャカルタに飛んだのは2002年7月のこと。

ガムラン奏者のお宅に居候

著名なガムラン奏者であり研究者でもあるベンの友人トリス氏は穏やかな人で、素性のよく分からない私のことも快く引き受けてくださり、ジョグジャカルタの広くはない長屋にトリス氏の家族と共に居候の居候という厚かましい立場で滞在することになりました。

昼間はふたりの幼い娘たちと遊んだりだらだらと過ごし、夕飯を済ませるとガムランの時間。トリス氏に紹介してもらったガムラン奏者たちの家を夜な夜な訪問する毎日でした。

ガムランは10数種類の異なる楽器のオーケストラで構成される音楽で、楽器ごとに奏者がいます。ひとつひとつの楽器がとても大きく持ち運べるサイズではないので、フルセットの楽器がおいてある奏者の家に集まり、練習したり奏者同士の親睦を深めたり、ときに内輪だけの演奏会を行ったりしていました。

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ガラムという丁子入りのタバコの煙がもうもうと立ち込める部屋で、奏者(全員男性)たちの世間話などを交えた演奏を深夜2時すぎまで。ベンが熱心にメモなどとる傍で私はというと、お茶をすすりながらうとうとしているテイタラク。

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よく知られているバリ島のガムランは激しいリズムが特徴なのですが、ジャワ島のガムラン、特にジョグジャカルタ様式は宮廷音楽の系統でどこまでも品よく雅やかです。素人耳には際立った旋律があるわけでもなく、ただただ同じようなリズムが、少しずつ変化しながら10分、20分と繰り返されていきます。退屈といえば退屈なのでしょう。が、なぜか、中毒になります。

ガムランが奏でる音にはひずみがあります。リズムも和音もきっちりハマる気持ちよさを追求するのが西洋音楽だとしたら、ガムランはその正反対。微妙にずれる拍数、微妙に上下する音階、微妙にハモらないそれぞれの楽器。眠りに落ちそうになる一歩手前で必ずこれらのひずみが神経を刺激し、眠気を誘うくせに寝かせてくれない。

半覚醒状態でこのひずみの波状攻撃にどっぷり浸かっていると、やがて脳内麻薬が分泌され、いつしか身体は弛緩し、ただひたすら、澄んだ音が気持ちよく響いていきます。ガラムタバコの甘い副流煙、夢とうつつの、まさに狭間。

ラジオ生中継で歌う

影絵芝居ワヤン・クリの催しがあったときのこと。トリス氏のはからいで、ベンと私はチャンプル・サリ(Campur Sari)という歌謡とガムランを合わせたようなちょっと庶民的なジャンルの歌を歌うことになりました。男女が掛け合いをするジャワ語の軽快な曲"Ojo Sembrono"。

インドと同じくインドネシアも多言語国家で、公用語のインドネシア語のほかに、ジョグジャカルタのあるジャワ島ではジャワ語も日常的に話されていました。ベンも私もジャワ語はまったく分かりませんで、ここが違うとかこれはこうだとか喧嘩しながら3日ほどかけて丸暗記。

当日は何時開場何時開演といったきっちりとしたタイムテーブルがあるわけではなく、21時すぎに始まり、ゆるゆると明け方まで続きます。影絵芝居でラーマーヤナの一幕をやり、チャンプル・サリの歌で気分転換し、また影絵芝居に戻るといった具合です。その日はラジオの生中継が入るということで、われわれもジャワの正装で臨みました。

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どんな歌だったかというとこの曲です。ベンはプロのミュージシャンなのでソツなくこなしていましたけど、ベテラン奏者の皆さまの生演奏を従えてラジオ中継でよく歌ったな私(笑)。

ジョグジャカルタの夜明けの月

そんなガムラン漬けの毎日、深夜のジョグジャカルタをふたり乗りのバイクを飛ばしてトリス氏の家に戻ると、われわれの部屋の窓からは夜空がよく見えました。

毎日ほぼずっと行動をともにし、同じ部屋で眠り、それでもわれわれは友だちの域を出ないのでした。込み入った夫婦関係をリセットして先に進もうとしていたベンと、好きな人に当たって砕けて傷つけてどうにも立ち直れずにいた私と。捨て犬が寄り添い合うような、同志のような、なにかの共犯者のような。

ガムラン奏者の家では派手に居眠りをかますくせに、いざベッドに横たわると寝付けません。別れた奥さんのことをぽつぽつと話すベン、ああそれはアンタが悪いと返す私、頭上には青白く光る月。近所の宵っ張りな年寄りが聴くラジオから、しっとり匂い立つような女性の歌声。

眠れないうちに近所中のニワトリがこぞって鳴き始め、街中のモスクが朗々とアザーンを唱え始めます。すっかり明るくなってからようやく眠りにつき、トリス氏のふたりの娘に起こされるわれわれ。

当時インドネシアのビザなし滞在期限は2か月。いよいよ出国しなくてはならないリミットが近づいてきました。

夜になると道路沿いにはちょっと小腹が空いた人たち向けの屋台がぽつりぽつりと出ます。ガムラン奏者の家から帰る途中、いつもの深夜営業のはちみつ牛乳屋台に立ち寄りました。

ベジタリアンのベンは食事のたびに肉や卵が入らないよう注文せねばならず、めんどくさいやつだなと苛々する私としょっちゅう喧嘩していました。はちみつ牛乳はなんとか彼の許容範囲(はちみつも牛乳もNGのベジタリアンもいます)で、この温かくてほんのり甘い飲み物はわれわれの夜の楽しみとして定着していたのです。

さてこのはちみつ牛乳です。なぜか、屋台のお兄さんは手渡すときにいつも意味ありげな笑みをよこすのです。

「今日聞いたんだけどさ」とベン。

「これって精力剤的な飲み物らしいんだよね」

ベンいわく、男性が夜の元気のために飲むのだとか。そういえば屋台は夜しか出ていないような気がしますし、生姜入りなのか、ほかにもなにか入っているのか胃がぽかぽかしますし、お客は男性ばかり、皆さんサッとバイクを横づけしてグイッと飲み干して立ち去るという感じです。

深夜に仲よくやってきてははちみつ牛乳で語り合うわれわれは、ものすごくがんばっている風に見えていたというわけです。

「これからどうなるかなんて分からないけどさ。がんばろうな」

ジョグジャカルタのあと、私はまたインドに向かう予定でした。ベンはビザを延長してもう少しトリス氏のもとにいると。2か月近く一緒にいた人と別れるのはとても寂しく、それでもこの後ろ髪を引かれるところでのさようならが正解なんだろうなと、そんなことを噛みしめながらバスのなかから手を振りました。

その後ベンはカナダの大学で教鞭をとり、音楽活動も精力的に行い、再婚して子どもも生まれました。

You deserve to be happy, Miki(幸せになれよ)。

夜明けの月を見るたびに、毎年そんなメールを誕生日に送ってくれる、秘密の共犯者を思い出します。

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