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[短文雑記]本の一文と日常の不安

最近読んだ哲学書に書いてあった言葉が最近しっくりきています。
今回はこれの言語化をできればと筆をとります。

しっくりきた一文は下記となります。

「人間は特に厄災や苦しみが続くとき、そのようなひどい厄災がもたらされる理由と意味がなければ生に耐えられない」

この文前後数行はだいぶ反復しました。
文脈としては、
- 人間は長期的な心身の苦痛を受けることは耐えられない。
- その苦痛はそれの理由と意味があると不思議と人間は耐えられる。
もちろん、耐えられるといっても上限はあると思います。

先人はこの苦痛への意味づけに物語を用意したようです。これが宗教です。宗教には世界観が必要です。コミュニティは世界観によって、それを元に原理をつくり、その原理を苦痛に当てはめることで原因(=理由と意味)を用意し解決に試みます。

宗教には難点があります。それは世界観を共有できていないコミュニティに対してはその原理は宗教がただの物語に成り下がってしまうのです。

これを解決するために物語を利用せず抽象概念を使用することで、各コミュニティの隔たりを超えるこれが哲学となります。

これら説明でしっくりきたのは、僕らは「長期的な心身の苦痛を受けることは耐えられない」と一行に最近漠然と感じる不安を一言で表現されていることです。

自分の場合、漠然とした不安として「何故この会社のこのチームにいることで何を期待されているのだろうか?」や、「プライベートを有効的に使いたいけど、何をしたいのかがわからない?」など、自分はどこにいて、何をするために生きるのか、これを答えられないことに落胆することは多々あります。

このような不安をあの一行は、「人間は機能として元来生きるために自分の立ち位置や行動に意味を求める」、そして、先人たちは「宗教」や「哲学」を見出していると答えているように読めました。

昔、父や祖母が仏壇へお参りする姿に不思議な感覚があったのですが少し理解できたと思います。
今の自分はこの不安に対応するため、様々なものから自分で読解を通して、自分の存在するための意味と理由をうみだすことが必要なのだと思う。

P.S 書いた文章を読みなしてみると自分はこの一行で自身の不安に対して理由の意味づけできていることで、不安に耐えようとしているのだと思った。

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