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いい時代に子どもだった

歳を重ねるごとに、一年、一ヶ月、一日、一分の速度が速くなって、いつの日かこの身体は「時」の概念に間に合わなくなって、粉々、或いは平たく潰れてしまうんじゃないか、なんて妄想をしていましたが、この4月は、なんだか不思議な余白を持ったようなひと月でした。
いつも通り、悦びと少しの我慢と至福の時を繰り返していたように思うのですが、やっと4月が終わるのか……という思いです。
もしかしたら、4月と5月の距離が近いから、5月の事を考える内に、4月がゆったり思えたのかな……
なんだか季節のお色柄、4月と5月は心の快活さへ似た時めきが齎される感じがします。
3月と4月はまた違うし、5月と6月も違う。なんだか不思議な発見です。

最近の私と言えば、土と植物に癒される日々を生きていまして、丁度1年前くらいに買った観葉植物を見ていたら、棲み処である植木鉢が、植物に対してとても手狭になっている事に気が付きました。
思えば葉の散る速度が増したような…と思い、急いで一回り大きい植木鉢と土を買って、植え替えをおこないました。
人様の引っ越しを手伝うような体験でありつつ、すごく自然に落ち着けるような所作でした。
うまく元気になってくれるといいなあと思います。


なんだか本当、ふとした瞬間に、「いい時代に子どもだったなあ」という事を、最近考えつきました。
とは言え、先日皆んなでバーベキューをした時に、知人が子どもを連れてきていて、それはそれは愉快爽快に遊んでいましたので、今の時代がどうという事ではまるで無いのですが。
ただ、私が子どもの頃は、すべての事が丁度のところだった、と言いますか…。
身体一つあれば遊べるような事に満ちていつつも、いわゆる「ゲーム機(私はたまごっちと同い年)」みたいなものもあって、でも持っている子ばかりではなかったから、交換こしたり貸し合ったりして。
一駅先まで歩けば、一応ショッピング・モール的な小施設があって不自由なく買い物が出来て、もう少し視界を広げたければ、電車に乗れば栄えた場所に出る事もできて。
一応携帯電話を大人は使っていたけれど、手紙という文化がまだ残っているからその書き方、暖かさも知っていて、便利になっていく世の中に驚きながらも、それを使いこなす自分に成長していけて。

今の子は殆どYouTubeを見ているとか、スマホを見せれば落ち着くとか、そんなことは我々がそうしているのだから当然だよなあと思いつつも、そうで無かった私たちは、不便利で不器用が故の手間暇に愛されていた感じがします。
自分の時代がとことん恵まれていた、という事では全然なくて、寧ろ他の時代の子どもを体験した事が無いので、こんな事が言える訳なのですが、本当にあの時代が、何かの丁度だったような気がしだして、こんな事を書きたてるに至りました。

私が大学を卒業して、16年間(幼稚園生時代を入れたら19年間……長……)に渡る学校という名の団体行動制限が取り払われて、心起きなく卒業式をしたり、卒業旅行へ行ったり、一人で海外を旅行なんかもしていたら、そのあとすぐコロナ禍になって。
私たちの次の学年からは、卒業式も卒業旅行もろくに出来なかったようなので、それも含めて非常に運は良かったのだろうなと思います。
次世代の方々も、同じくらいの楽しみを探し、見つけた事と思いますが…!

上記の理論でいくと、大人を生きている私にとって、今はやはり「丁度」の時代ではなくて、世界の速度に置いていかれないよう、地球の取っ手に必死にしがみついているような感覚があります。
本当にスマホを手放してしまって、SNSをシャット・アウトしてしまったのなら、地球の人口として数えてもらえない類のところまで落ち窪んでしまうような時代です。
決して悲観的な話ではなくて、私は今この時代を生きている事が楽しいので、生きるという選択を続けている訳ですし、今愛している人がいるから、その場所から動こうとしない訳だし……

そんな事を考えている内に、「子ども」という時代がいいもの(というかあの頃の能力ではシアワセな事くらいしか記憶にない)だから、全員「いい時代に子どもだった」と思っている可能性もありますよね。

一直線の書き方くらい簡単な事を、今日も必死に考えている自分へ、何か可愛いプレゼントでもしたくなるような、春の陽気に万歳。

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