見出し画像

何度も禁煙を失敗した私が、意思とは関係なく、ある日ぱっと止められた話。

止められない理由なんてどうでもいい

止められない理由は二つあるようで、ニコチン依存心理的依存ということは、検索すればすぐに分かることだから、小生がうんちくを書くほどのこともない。

で、小生もタバコが体に悪いことは承知しつつ、何度も禁煙を試みては失敗してきた。どうしても「禁煙」が続かず挫折しては自己嫌悪に陥る。問題は止められない理由を知ったところで、止められなきゃどうしようもない。結局のところニコチン依存と心理的依存も、意思が弱いからなんじゃないかと本気で思ったりもする。

意思の強さで止めた訳ではない

たまに人から訊かれたりすれば、もうずいぶん前に「パッと止めた」というハナシをすると、決まって言われる。「へぇ~、意思が強いんだね」と。確かに・・、意思が強い、そんな人もいるかも知れないけれど、小生は人様に言えるほどそんなに意思が強い訳ではない。

でも、「なかなか止められないって言うじゃない?」・・とか、「ウチのダンナも結局止められなくて」・・とか、同じようなことを周りから聞くこともある。あるいは意思かも知れないが、小生はちょっとだけ「考え方を工夫した」ことで簡単に止めることができた。

自分が喫煙者かどうかを自問自答すればいいという結論に

要するに、喫煙室(所)に行く人たちを観るにつけ、彼らは”喫煙者”という認識はあるのだろうか?・・と、小生もその仲間だったからよく分る。既に止めた自分が彼らを観ると一層強く感じる。

止めたきっかけは確かにあった。元同僚の奥さんから訃報を聞いてショックだったことを今でもよく覚えている。定年後は旅行でもしようよ、今度、飯でも喰おう・・、彼とはそんな話を交わしていたから、残念で仕方ない。心から彼を偲んで、「Oさん、何でだよ、何で逝っちゃったんだよ?」・・、と言いたかった。そんな気持ちで「俺、今日からタバコ止めるよ」、そっと胸の内で呟いた。

さて、止めようと思ったものの、禁煙を何度も失敗してきた小生、果たして本当に禁煙できるのか甚だ疑問ではある。これは一筋縄では成功しないと分かり切っていた。それは意思が強いとは言えない自分を知っているからだ。もっと簡単に止められないかなぁ~、と、残り数本あったタバコのパッケージを眺めて溜息をついた。

喫煙者が禁煙を誓うのは至難のワザ

そうだ、これだっ!と、閃いた。親父は亡くなる少し前まで吸っていたけれど、母は生涯吸う人ではなかった。

喫煙所

つまり、職場の喫煙室(所)にちょっと一服とばかり集まる人たちは「喫煙者」ということになるけれど、職場には喫煙室に縁のない初めから母のように吸わない人たちも大勢いる。吸う人たちを喫煙者と呼ぶなら、対する吸わない人たちは「非喫煙者」となる。

いくら禁煙を誓ったところで、ニコチン依存者にしてみれば脳が欲している訳だから、禁ずるということは、我慢を強いられる耐えがたいストレスになるだろうし、そもそも現代人は我慢ということに慣れていない。我慢はストレスそのものだから、一服のストレス解消とは相反することになる。

そこで考えたのは、職場には初めから吸わない人たちが大勢いるように、俺も吸わない「非喫煙者」なんだと。だから喫煙室(所)とは無縁だと・・。考え方としては極めてシンプルだ。

そう、考え方のちょっとした工夫、俺は「非喫煙者」吸わない人なんだと。

良い一日に感謝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?