事実とか価値とか

『講座 あにまるえしっくす』第0回「倫理学を始めよう!」では、健全な倫理的判断は妥当な「理由」を必要とし、そして妥当な理由は3つの条件を備えていなければならないと解説しました。3つの条件とは

①普遍的な視点を備えていること
②一貫性を備えていること
③正確な事実に基づき、かつ、事実と価値を区別していること

なのでした。今回は第3の条件のキーワードである「事実」と「価値」を中心に、本編で解説できなかったことを少しだけ補足します。

1.事実判断と価値判断

第0回では事実判断と価値判断について、第5回「“である”と“べき”の断絶!? ~ただ、あなたらしく~」でヒュームの法則について説明しました。簡単におさらいしますと、事実判断とは「実際にどうであるか」についての判断なのでした。価値判断とは「どうあるべきか」や「どうあってほしいか」についての判断、さらに現実に対する肯定的評価や否定的評価のことをいうのでした。ヒュームの法則とは、「事実判断のみから価値判断を導くことはできない」というものでした。「『である』から『べきである』を導くことはできない」がスローガンです。(※1)

価値判断を排して、単に事実としてどうであるかに関する説明を「記述」と言ったりします。倫理学者はよく「記述的には〜」と言いますが、それは「価値判断を排した事実としては〜」という意味です。

価値判断には「正しい」「よい」「べき」といった述語で表現される倫理に関わる価値判断の他、「美しい」「醜い」といった美的な価値判断、「美味しい」「不味い」といった味覚に関する価値判断も含まれます。倫理的な判断のうち、「べきである」の判断を特に「当為判断」と呼びます。

2.事実判断からは導かれない

事実判断をいくら積み重ねても、価値判断を導くことはできません。逆に言えば、価値判断は事実判断によっては正当化されません。価値判断の正当化には、常に別の価値判断(と事実判断)を必要とします。

例えば、「自動車の使用や肉食を減らすべきだ」という価値判断は、「自動車の使用や肉食は地球温暖化の原因になる」という事実判断のみによっては導かれません。この事実判断も必要ですが、もう1個、「地球温暖化を阻止すべきだ」という価値判断を必要とするわけです。

つまり、以下のような論証は失敗です。

論証A
前提 自動車の使用や肉食は地球温暖化の原因になる(事実判断)
結論 自動車の使用や肉食を減らすべきだ(価値判断)

それに対して、以下のような論証ならば成功です。

論証B
前提1 自動車の使用や肉食は地球温暖化の原因になる(事実判断)
前提2 地球温暖化を阻止すべきだ(価値判断)
結論 自動車の使用や肉食を減らすべきだ(価値判断)

論証Aの前提にいくら事実判断を加えても、それによって「自動車の使用や肉食を減らすべきだ」という結論を導くことはできません。例えば、「地球温暖化によって海水面が上昇する」「海水面が上昇すると南洋に点在する島嶼国家は水没する」「動植物の大量絶滅を引き起こす」といった事実判断を重ねても、事実判断のみからでは価値判断を導くことはできません。「そうした事態を避けるべきである」という価値判断を必要とするのです。

私たちは多くの場合、事実によって価値判断を正当化しているように感じます。「人を殴ってはいけない。殴られた人は痛いから」という具合に。しかしこの場合も、よく考えると「殴られた人が痛みを感じる」という事実判断だけを前提としているのではなく、「人に痛みを与えてはならない」という価値判断を暗黙の前提としていることがわかります。

3.事実判断に基づいて

価値判断は事実判断のみからでは導かれません。しかしこのことは、価値判断は事実判断に基づかないという意味では決してありません。むしろ、健全な価値判断は、正確な事実判断に基づいている必要があります。

例えば上記の論証Bでは、前提1の事実判断「自動車の使用や肉食は地球温暖化の原因になる」が正確な情報である必要があります。もしこの情報が不正確であれば、結論の価値判断は説得力を失ってしまうでしょう。そして、この情報の正確さを判断するのは、倫理学ではなく、(この論証の場合は)自然科学の仕事です。

また、価値判断の対立に思えるものが、実は事実判断の次元での対立に過ぎない、ということがあります。例えば、リンは多少のスピード違反は許されると考えており、マルはスピード違反はいかなる場合でも許されないと考えているとしましょう。この時、リンとマルは価値判断において対立しているのでしょうか。そうとは限りません。リンが多少のスピード違反を問題ないと考えるのは、そのスピードを安全の範囲内であると考えているからかもしれません。だとすると、リンとマルは「安全に運転すべきである」という価値判断においては一致しており、「どの程度の速度ならば安全であるか」という事実判断の次元において対立しているのだと言えます。

4.価値判断を含む表現

単純に事実について語っているように見えて、暗黙のうちに話者の価値判断を含んでいる場合があります。

(A)価値判断を含む語彙
例えば「あの国の政治制度は非民主的だ」は事実判断でしょうか、価値判断でしょうか。非民主的という語彙には既に否定的なニュアンスが含まれています。つまりこの発言は、当該国家に対する話者の否定的な評価であると見ることができます。このように、ある種の価値判断を暗黙に含んだ言葉を二次的評価語と言い、「非民主的」の他、「差別」「自由」「平等」「虐殺」といった語がその例です。

(B)話者の立場によって変わる表現
同じ事柄を指す場合でも、話者の立場によって異なる言葉を用いられることがあります。例えば政治的意図をもってなされたある種の行為は、一方の勢力からはテロと呼ばれ、他方の勢力からはレジスタンスと呼ばれるでしょう。二次的評価語でなくとも、単語に定着している悪いイメージを払拭するために別の語を使用したり、逆に悪いイメージを与えるために別の語を使用することもあるでしょう。防犯カメラと呼ぶか、監視カメラと呼ぶかはその典型です。(※2)

(C)話者の態度、評価を伝える表現
また、助詞や述語の表現を変えたりすることで、同じ事柄もまったく異なるメッセージとして伝わります。「雨が降ってくれた」と「雨が降ってしまった」では、出来事に対する話者の態度がまるで異なることがわかります。「そこには30人もの人たちが集まっていた」も「そこには30人の人たちしか集まっていなかった」も、事実としては「そこに30人の人たちが集まった」ということですが、前者と後者はそれぞれ異なる話者の評価を伝えています。(※3)

ある種の人たちが、動物を殺して食べる行為を、「いただく」という表現を用いることも、興味深いですね。

5.倫理の議論の方法に関する一提案

価値判断は事実判断によっては正当化されず、正当化には別の価値判断を必要とするのでした。そこで必要とされた価値判断も、やはりまた別個の価値判断によって正当化されます。そうであるならば、ある価値判断を正当化するために別の価値判断を準備し……という作業はどこまで続くのでしょうか。ここで無限連鎖を避ける手段の一つは、遡り続けて到達する、それ以上の正当化根拠を探すことが困難な価値判断を第一原理とすることです。第一原理は正当化され得ない、というより、他のあらゆる価値判断の正当化根拠となるような価値判断です。

具体的に、先程の論証Bに戻ってみます。

論証B
前提1 自動車の使用や肉食は地球温暖化の原因になる(事実判断)
前提2 地球温暖化を阻止すべきだ(価値判断)
結論 自動車の使用や肉食を減らすべきだ(価値判断)

「自動車の使用や肉食を減らすべきだ」という価値判断の根拠は、「地球温暖化を阻止すべきだ」という価値判断と、「自動車の使用や肉食は地球温暖化の原因になる」という事実判断でした。では、「地球温暖化を阻止すべきだ」という価値判断の根拠は何でしょうか。それはおそらく、「地球温暖化によって社会や生態系に大きなダメージを与える」という事実判断と、「社会や生態系に大きなダメージを与えるのを避けるべきだ」という価値判断でしょう。

論証C
前提1 地球温暖化によって社会や生態系に大きなダメージを与える(事実判断)
前提2 社会や生態系に大きなダメージを与えるのを避けるべきだ(価値判断)
結論 地球温暖化を阻止すべきだ(価値判断)

では、「社会や生態系に大きなダメージを与えるのを避けるべきだ」という価値判断の根拠は何でしょうか。それはおそらく、「社会や生態系がダメージを被ると人や動物が苦しむ」という事実判断と、「人や動物を苦しめてはいけない」という価値判断でしょう。では、「人や動物を苦しめてはいけない」という価値判断の根拠は何でしょうか。それはおそらく、「苦痛は悪だ」といった第一原理や、「他者の尊重」といった第一原理になるでしょう。

倫理の議論は「論理を欠いた感情的な応酬に過ぎない」と言われることが時々あります。しかし、ここまでの説明は、倫理の議論において、感情的な飛躍をなるべく排した有益な議論をすることも可能であるということを示唆しています。そうした議論の方法の一つは、「共有する第一原理(一致点)を探り、そこを出発点として、事実判断と組み合わせ、演繹的に推論していくこと」です。そうして整合性を保ちながらさらに一致点を探っていくことで、感情のぶつかり合いを超えたまともな「議論」をできるかもしれません(※4)。なお、その際にも、以下のような2点に注意すべきです。第一に、事実判断で対立しているのか、価値判断で対立しているのかを明確にすること。第二に、ヒュームの法則を犯さないこと。

6.自然、食物連鎖

さて、第5回でも論じましたが、動物食を肯定する人達の中には、「動物を食べることは自然だ」という言い方をする人がいます。「自然」とは果たして何を意味するのかはさておき、もし「これこれの行為は自然である」という主張が単なる事実判断でしかないのであれば、それは動物食を反対する理由も支持する理由も与えません。単にある行為の様態について事実を述べているだけだからです。それは、「落とさないように慎重に運ぶべきだ」という提言に対して、「物が落下するのは重力によるのだ」と反発するようなものです。

また、もしここには「自然なことをすべきだ」という価値判断が暗黙の前提として隠されているか、あるいは「自然」自体が「よいこと」「すべきこと」という積極的・肯定的なニュアンスを含んだ二次的評価語であるならば、「自然」とは一体何を意味するのかという問題に直面します。飢饉や疫病の蔓延、欲望に任せた暴力行為も自然と言えそうですが、これを肯定することは通常はできないでしょう。

ビーガンに反発する人の中には、「食物連鎖って知っているか?」と揶揄する者もいます。「人が動物を食べるのは食物連鎖なのだ」と言いたいわけです。その実態が食物連鎖とは言い難いのはさておき、「これこれは食物連鎖である!」と生物学の用語を使用してみても、やはりそれは単なる事実の記述なので、上の例同様、ビーガンに対する反対意見にも賛成意見にもなりません。それは、「台風に備えて防災セットを準備すべきだ」という提案に対して、「台風が発生するのは熱帯低気圧が発達するからだぞ!」と反発するようなものです。

もしここに「食物連鎖に従うべきだ」という価値判断が暗黙の前提として隠されているならば、私たちホモ・サピエンスの社会生活を食物連鎖に位置付けるとはどういうことなのかを明確に説明し、その上で、食物連鎖とは認め難い過程を排除すべきでしょう。例えば、ウシに本来の食性とは異なるトウモロコシや大豆のような飼料を与えたり、養殖魚にトウモロコシや陸生動物由来の飼料を与えたりすることはとても食物連鎖の過程とは言い難いはずです。食肉生産の副産物として皮革製品を生産することも禁止の対象になるでしょう。

7.「女性」は生物学上の概念か

清水先生がこのようなツイートをした時、「東大の学者が生物学的事実を否定した」と騒いでいた人達がいました。特に関西のある獣医学生が「フェミニズムの前に生物学を学んだ方がいいと思う」と発言していたことが印象に残っています。

しかし、「女性」も「男性」も、単純な生物学的な概念でなく、ある種の価値判断や社会的な内容を含んでいることは少し考えればわかることです。一部の勢力は「女性/男性である」を、生物学的事実に過ぎないと強調します。同時に、生物学的事実のみを根拠としてトイレを区別すべきことを主張し、一部の人のトイレの通常の使用に制限を設けようとします。

さて、もし「女性/男性である」の区分が生物学的事実としての区分でしかないとしたら、トイレを男性用と女性用とで区分する理由も消滅するでしょう。生物学に関する事実判断からは、「男女で区別すべき」という価値判断は導かれません。実際、動物の雌雄は排泄場所を区別しません。にもかかわらず我々ヒトは区別すべきであるとするならば、その根拠は生物学的事実だけではあり得ません。生物学的な事実判断のみならず、何らかの価値判断、社会的判断がそこにはあるわけです。

「女性/男性である」の区分にしたがってトイレを分けるべきだと主張する時、その人は「女性」や「男性」に生物学的事実だけでない、社会的な含意を持たせていることが、このように明らかになります。「女性」も「男性」も、単純な生物学的な概念ではありません。

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今回は、健全な倫理的判断を支えるための「理由」に必要とされる3条件のうち、第3の条件のキーワード、「事実」と「価値」を中心に、本編で解説できなかったことを少し補足してみました。それでは、こんなところで。

※1 時に、ヒュームの法則を「自然主義的誤謬」と同一視する解説がありますが、これは厳密には誤りだと思います。自然主義的誤謬については、倫理学のテキストを当たってみて下さい。おすすめは伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』です。

※2 全米肉牛生産者・牛肉協会(NCBA)の幹部は、代替肉の「クリーンミート」という呼称について、従来の食肉を「汚い」ものだと示唆しているとして、反対しています。(「人工肉」「培養肉」「クリーンミート」?白熱する肉代替食品の呼び方論争、2019年5月29日、AFP)

※3 この「30人」の例は、野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』から拝借しました。野矢先生は以下のように補足しています。「事実であるのは「30人の人たちが集まった」ということであり、それを「30人も」と言ったり「30人しか」と言ったりするのはその人の意見である、と言いたくなるかもしれない。なるほど、「30人も」と「30人しか」の両方の見方が可能である場合には、どう見るかはその人の考えしだいと言ってよいだろう。だが、つねにそうなるわけではない。例えば、300人は来ると予想してその大きさの会場を用意していたのに、実際に集まったのが30人であったとしよう。そのときに「30人も集まった」と言うことはできない。誰が見てもこれは「30人しか集まらなかった」という状況だろう。このようなとき、「30人しか集まらなかったという事実がこの企画の失敗を物語っている」のように言うこともできる。つまり、この場合には「30人しか集まらなかった」というのは事実、すなわち客観的なことなのである(太字は本文では傍点)」

※4 倫理に関する議論の方法について、伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』がより丁寧に解説しています。

画像1

【参考】
赤林朗・児玉聡〔編〕『入門・倫理学』勁草書房
アン・トムソン〔著〕、斎藤浩文、小口裕史〔訳〕『倫理のブラッシュアップ』春秋社
伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』ちくま新書
野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』山川出版社

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動物倫理を解説します。
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