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紅茶が飲めなくなった話

小さい頃、紅茶花伝が大好きだった。

今も好きなことに変わりはないのだが、「だった」と過去形にしているのは、ある時を境に紅茶花伝が一切飲めなくなってしまったからだ。

確か7.8歳くらいの記憶だったと思う。
家族で出かけた帰り道、「家までもう少しかかるから飲み物を買っていこうか」と道端の自販機に立ち寄った。当時のわたしはがきんちょなりに、親に何か買ってもらうことに引け目のようなものを感じていたので(今ならそれがまったくもって余計な心配だということがわかる)、スーパーで買った方が安いからいらない、などとそっけない態度をとってみたりしたのだが、自販機で飲み物を買うなんてことは滅多になかったので、特別感に負けて結局買ってもらうことにした。そのとき選んだのが紅茶花伝だった。

家まではあと30分ほどの道のりであったが、なんだか一気に飲むのがもったいないように感じられて、ちびちびと少しずつ飲んでいた。家で何かを飲むのなんて、麦茶か牛乳くらいだったから、自販機で買った缶の飲み物を家で飲むのって素敵だろうなあとか考えていたのだと思う。

家に着くと、祖父母の家の窓からひいおばあちゃんが顔を出していた。我が家は祖父母宅の庭の畑を潰したところに建てたので、庭を挟んですぐ隣に祖父母の家がある。
「出掛けてたのかい、今日はいい天気だからね」とひいおばあちゃんが尋ねたので、わたしは紅茶花伝の缶を握りしめたまま窓に駆け寄った。
ひいおばあちゃんは当時90歳目前で、すっかり足腰が悪くなってしまい、ほとんど家に閉じこもって寝たきりのような生活を送っていたので、わたしは出来るだけひいおばあちゃんの話し相手になってあげたいと思っていた。
ひいおばあちゃんはわたしが握りしめている缶を見て不思議そうに「それは何の飲み物?」と聞いた。わたしは「ミルクティーだよ」と答えながら、もしかするとひいおばあちゃんはミルクティーなんて飲んだことないのかもしれないな、と考えていた。すると、案の定というべきか、飲んでみたい、一口ちょうだい、とひいおばあちゃんが言った。

大好きなひいおばあちゃんが欲しいと言っているのだ、笑顔で手渡すべきだったのだろうが、そのとき幼いわたしはまるで宝物を横からさらわれるような気持ちになり、せっかく家まで取っておいたのに、頼むから全部は飲まないでよね、などと思いながら、本当にしぶしぶ、ひいおばあちゃんに缶を手渡した。
ひいおばあちゃんはおぼつかない手つきで缶を口に運び、一口にも満たない、唇を湿らせる程度の滴を舐め、「美味しいねえ。こんなに美味しいものが外にはあるんだねえ」といって笑った。

わたしはその瞬間、自分の度量の小ささが急に恥ずかしくなり、ああとかうんとか曖昧な返事だけして逃げるように自分の家に飛び込んだ。

これ以来、わたしは紅茶花伝を見ると、どうもこの出来事を思い出さずにはいられなくて、なんとなく敬遠するようになってしまった。もう10年以上は飲んでいないと思う。

ただ、わたしはこの出来事について、嫌な思い出として記憶しているわけではなく、かといって心温まる思い出というわけでもないのだが、それでも忘れたくない記憶のひとつではあるので、忘れないようにここに記しておく。