無知の知
自分が知らない状態を恐れてすべてを知ろうと質問攻めになることも少なくないだろう。その都度思った不安を解消していく程度で良く、多くを一度に知ろうと思っても点ばかりが増えていって、後で線を引く際にどこにつながるのか余計混乱することもしばしばある。たとえば、技術的・専門的な話と人とのコミュニケーションという非専門的な話を一緒にして考えないことが重要で、これらを総括して覚えるというより、まず現段階でできる部分を認知して、必要なのに不足している部分を補っていくというのが賢明な考え方なのだ。
―――メタ認知
―――貧すれば鈍する
人が不幸を回避できない理由の何割かは無知ゆえの失敗だとか、準備不足による失敗が多いように思える。その不幸も結果、糧として消化できるのであればそもそも不幸というのは間違いだが、する必要のない苦労を自ら背負って堕ちていく人が多いようにも感じる。後悔は未来に対して何かと糧や教訓になるが、不安は利己的なものであって自らを苦しめるだけのものと言える。そのような状態では頭もまともに働かないし、そのことに捉われて冷静な思考ができなくなってしまう。衣食足りて礼節を知るでもある。
下記tweetの事例は目も当てられない程悲惨だが、多少手間をかけてもしっかりと行うことはこういう面において重要なのだ。
―――詳細を知ることで出てくる問題を鑑みずにあれこれと横やりを入れられるイライラ
世の中の問題や個人の価値観については「何で?」が通用しないものが多い。個人的に思う感情や主義・志向では問題解決の突破には至らず、思考的には確かにそうだが現実的な問題としては免れないリスクが想定される場合などは、一概に安全な解決を促進させるものではないと気付いてしまうのだ。
―――知ることによって超えられない壁を知る
―――中途半端な知見から広く広まる誤解
―――無知を知覚するところから
―――集団の中に身を置いて生きる以上、己が許されてここにいる存在であることを忘れてはいけない
―――無知によってかえって助かるケースも
先入観
ハイコンテクストとは、言葉の説明が少なく、前提認識の共有性を求められるもので、対してローコンテクストとは言語による具体的な説明を前提に行うコミュニケーションだ。広い視野では、先入観による「当たり前」「なぜ?」はどこでも通用するわけではないのだ。
前提・バイアス
人間が書く文章や意見には少なからずバイアスがかかっている。司会でもなんでも一見フラットで平等な形式で進めていても、自身の感情や思考によって話が進められることは少なくない。それは自分ではなく他の人が見たときにどう感じるかと言うことであり、その感じ方にも自身が感じ得る印象に引っ張られ、全体像がそのように曇ったように映ることもまた少なくない。
下記リンク先の内容はそれを象徴した考え方だ。こちらが「こうしたい」という前提を持っていても、それは自身が見ている・思いつく範疇であり、同様に他社がそれを受けた際に感じる印象のコントロールまでは責任が持てないということだ。同様の経験・感じ方まで含め、自身の意見を意のままにコントロールすることは不可能であり、誰が受けても同じように感じるようデザインするのがデザイナーなのだ。
―――前提の欠陥に気付かずに定説とする
―――バイアスがかかったポジショントークに納得させられる
―――多数決の穴
単に大勢の意見が及第点として正しい意見であるというのはいただけない。選挙のシステムにおいても多数決の原則があり、少数派意見の尊重を謳っても実際問題は投票数の多い党に入ってしまう。まず前提が、皆が正直に公平公正な意見を出すものと言う信用を土台に成り立っているため、そこが誤っていればすべてが崩壊する。一般にワイドショーにおいて意見には肩書というラベルが貼られており、民衆は得体の知れない問題・意見に対して、ラベルのブランド力を信用した上で自分の考えを選択している状態であるため、中身よりもラベルを見ていること、わかりやすい自分へのメリットで判断する傾向がある事を考慮する必要がある。
―――前提から外れるものの存在の認知
プログラミングでもよくある部分だろうが、正確な値が出ない場合には下記tweetのような例外が存在する場合がある。
―――前提を踏まえた上で想定されるリスクの改善
―――事前理解が印象を左右する
基本的に仲が深まっていない最初の段階では、相手の表面的な言動からその人に対する印象を抱きやすいし、これまでの経験や傾向から早とちりして判断してその人にレッテルを貼ることも少なくはないだろう。それに伴って相手の真意を伺うこともなくバッシングすると言うのがSNS炎上の火災現場でも見受けられる。ただ、前提の認識を持って見ていれば相手に対する理解や自分に感じる不安についても分析がしやすい。
また、他人にうまく言葉で説明できないもどかしさや言いづらさ、そういったものを総括して暴力で解決してしまう例は少なくない。これによって相手に察してもらって機嫌を取ってもらう。本人の自覚の有無に関係なく、相手にとってこのような恐怖で支配するやり方は共感は得られず、好印象ではない。
―――ネガポ変換しているだけで実質変わらない言動
―――同じ世界に生きながら、それぞれ見ている景色の映り方が違う
下記Tweetは女性の社会的地位向上を目指すための訴求動画として男性クリエイターが作成した映像作品であり、金賞を受賞した作品である。
このTweetが昨今のフェミニズムやミソジニーやそれらを取り巻く層からの考えで議論を呼んでいる。映像のみで言葉はなく、いかようにも解釈できる余地を残した作品であるため、視聴者が独自に解釈することで議論が行われるのを作者は想定した上で公開したのだと思われる。ただ作者自身にも皮肉にも似た意見が呈されていて大喜利のような展開となっている。
男女という大きい括りでないにしろ、上司と部下のようなポジションにおけるハラスメント問題においても言えることである。えせ同和行為のように、弱い立場として権威を与えることでパワーバランスが均一になるかと思えば一方的な要件によって過激化することもリスクとして考えられるのが難点で、かといって強い立場の言い分を飲むことでより一層立場を強めて依然として弱い者に対する態度が改められない(又は強める)という恐れがある。平等中立の立場ではなく、どちらかのポジショントークとして正当性を主張する意見が多く、依然としてどこかに悪者を作り上げて非難する構造であることには変わりはない。
アート作品は問いを投げかけるものであるため、それによって閲覧者が独自に解釈して議論を行うのはもっともらしい反応である。その一方で、コンセプトとして明確に主張したい意図があり、不特定多数に理解を示したい場合は投げかけるものは問いではなく一つの解であり、その目論見が外れてしまった場合の代償の大きさである。その場合、強い立場がより一層立場を強めて依然として弱い者に対する態度が改められない(又は強める)という恐れがある。
上記Togetterにおいて妊婦体験と称して男性に7キロの重りを付けるといった体験を行ったようだが、男性側は容易に受け入れて余裕を見せた態度を取り、企画倒れとなってしまったようだ。これに関しては完全に企画主宰側の落ち度である。女性側の苦労に理解を示すために男性に提示する企画であるため、この際「実際はタダの重りには命の重さも含まれている」や「重いだけでなく自身の体調管理も含めて困難である」などといった留意点は、何の苦労もわかっていない男性側には無意味である。むしろそのような男性をターゲットにして行う企画であるからこその本末転倒である。これを本格的に行うには、個人の体感のみならず、周囲への配慮や自身の生活管理、体調の変化など、苦しいと感じるファクターをできる限り再現した上で生活環境から一定の期間を設けなければならないはずだ。
これが、同じ景色を見ていてもどこに焦点があっているのか、見ることで何を得ているのか、それらの要因に個人の私情や主義主張が重なった色眼鏡によって見ているため、同じものには映らないということである。
―――流されない自分の軸を持つ
印象・解釈
―――人は見た目9割、ぱっと目に映るものの印象で大方が決まってしまう構造の欠陥
―――歪んだ認知
カラーバス効果と言われる言葉が用いられることが多いが、一つの出来事に興味を持つとそればかりが見えてしまうという現象が多々ある。
文章の中に自身にとってネガティブな印象を受ける要因が含まれる場合、自己防衛として反射的にその内容を自分の都合の良いように解釈してしまうきらいがある。これが批判となり、内容を冷静に確認できない状態に陥ってしまう。
―――悪い印象に引っ張られる
世の中のもてはやされている人と言うのは、ほぼファンとアンチの両方がいて攻防している場合が多い。下記のtweetを見て欲しい。批判意見の解説・内訳としてはごもっともの考えのように見える。
ただ実際の2chのスレッド上では下記のように、発言者が馬鹿にされているのだ。自分がファン側・アンチ側に身を置いた際、自身の考えが全く左右されないというのは難しいだろう。それほどマジョリティに判断を委ねて他人の目を伺って牽制しているというのがわかる。
―――印象だけで180度変わる評価
―――他者から見た際の印象・捉え方
―――自分の立場をわきまえることでうまく受け入れてもらう
―――誰もが見知らぬ他人に不幸であってほしいという幻想を抱いている
―――捉え方による印象の違い
下記のTweetで言及しているTiktokの内容及びコメントについて、どう捉えるかで天と地と程の差が出てくるだろう。
内容として、回転ずしで誰も取らないような形の乱れたすしネタを率先して取る旦那さんについて挙げられたTikTok動画だが、それに対して「そんな旦那さんに選ばれたんですね」といったコメントがされている。
コメント主の真意は定かではないが、二通りの解釈として「そういった心の優しい旦那さんに選ばれたんですね」または「ということはあなたは旦那さんに誰も取らないような人と認識されたということですよね」といった趣旨のコメントにも読み取ることができる。人にはネガティビティバイアスがあるため、後者で捉えた人がTweet下のコメント欄で溢れているが、ある意味どちらか定かでないにも関わらず後者で捉えてしまう人も自らが指摘したコメント主同様にひねくれていると言っても過言ではない(コメント主が前者の意図でコメントした可能性も十分あるため確定的ではない)。
―――見方を変えるだけで悪にも善にも見える
―――心のすれ違いから巻き起こす不和
相手をdisるつもりでも圧をかけたりマウントを取るわけでもなく、話のフックとして持ちかけただけの話題が相手に誤解して受け取られた場合にお互い不和が生じる。というのは、攻撃されたと判断した相手が逆にこちらへ意趣返しをし、こちらもそれに応えることで負のスパイラルに陥るのだ。
ドラマの『隋唐演義』はそのような内容となっており、『美しき隣人』では他意のない何気ない一言が相手の琴線に触れたことを発端として巻き起こった物語となっている。
―――「見た目9割」真意は残りの1割に
恐らく人は外見から中身を想定したり期待して接する場合が多いだろうし、その分中身の部分とのギャップに一喜一憂して印象が左右されることも少なくないだろう。
無難な評価を求める故に量産型と言われるファッションが横行したり、奇抜なもの・風変わりな人を見て、常識から外れているとして叩いたり馬鹿にしたりすることもあるだろうが、結局自分らしく振舞って素直に生きて上手くいっている人は羨ましいのだ。
外見は書類審査のようなもので、そこで不採用になれば内面を知る面接にまずたどり着けないということだろう。
さらに難しいのは、外見も内面も良くてある程度気さくに接することが出来る仲になったとしても、そこから自分を上手くさらけ出していくことが出来ないということだ。この場合、多くは違和感を抱かれるだろうが、無難な関係が深まった段階でそうなると、かえってギャップで拒絶感も高まるだろう。
赤子がいきなりアメリカンエスプレッソを飲んだら吐き出して嫌いになるだろうが、大人になれば好物の一つになる可能性はある。大人になってから食べて好きになった食べ物はあるだろうし、苦手だった酒にしても高級な酒を飲むことで価値観が変わり、飲めるように変わるだろう。上記Tweetを考えると、見せるタイミングや状況が重要であると思うし、時折チラリズムを組み込んで落差を無くすことが重要だろう。ギャップは良いようにも悪いようにも転ぶので、その辺の説得力をなんとかして違和感を無くすことが重要だろう。結局、もっともらしい答えはわからないのだ。
―――一度立ち止まって考える
価値観
―――外国人から見た日本人の嫌なところ
―――価値観を植え付ける
上記引用tweetその通りだが、子供は親を大人として、正しい鑑として見ているので親の言うことは正しいと信じてしまう傾向は強い。生活を握られているから当然だし、一番身近で親しみのある大人から言われるのであれば、当然信じてしまうだろう。どんなに理不尽で酷い虐待を受けた子供も親に対して気に入られようと、最後まで「ごめんなさい」と自責に駆られていることが多い。
―――作り上げられた価値観を土台に生きる不安定さ
―――答えはいそがされてる どう否定しますか
理解のプロセスとして例えると、自転車が乗れなかった頃の記憶や乗れるようになったプロセスを覚えているか?子供の頃苦手だった食べ物が現在の好物のひとつになっていないか?というようなものと似ていて、時間を要するのだ。赤子にアメリカンエスプレッソを飲ませても吐き出すのは当然だが、大きくなってから好んで飲む飲み物になっている可能性は0では無い。
理解のプロセスを踏んで、その人に興味関心が行き渡った状態からまた一つ気をつけたい部分がある。それは、その人の考えに納得してその人に興味を持ったというプロセスがあり、決してその人に興味があるからその人の考えは納得出来る(正しい、間違っていない)ではないということだ。ここを間違って、新たな意見が投げ出された際に、どう考えても納得し難いがなんとか自分もその"意見"に近づこうと屁理屈で仮設の階段を作って意見にしがみつこうとする。元がおかしければ意見もろとも崩壊してそのまま地面へと堕ちていくのだ。つまり、双方が己の意見や考えに確固たる信念や考えを失っている状態になるのだ。誤った言論は雪玉で大勢が転がして大きくなった時に雪崩となって己を飲み込む。
悪い考え方や誤った価値観は、得てして理由付けのプロセスがしっかりしていない場合が多い。たとえば、現時点で賛同しがたい当人の意見が上空にあるとして、自分はその下にいる。それは記事で言う見出しを見た時から始まる。その考えを理解するプロセスには、まずそこから読み取れる限りの出ている情報を得て、その当人の過去の意見や考えから志向を伺う。それを確認することで、現在までを予測する。これを行うことで理解への階段が築かれ、考え方や価値観に手が届く距離に近づく。そこで一理あると思うか、わからなくは無いが賛同しえないとなる。あるいは、この意見は賛同できないが、過去の意見には納得できるし賛同もできるという状態になっているかだ。
一方で、下記Tweetのように「それを一般的な世界観」として認識してしまうと、その誤解を解くために一時的に誤っているであろう相手の領域に踏み込んでアクションを起こす必要性が想起される。他人と対話をする際に、対等な位置になるため、よく子供と話す際は同じ目線になるように腰を下ろして話すというものがあるが、この場合暴力がそれに該当している。
―――自分の軸を壊さないために他人の意見の良し悪しには気を付ける
―――気づきが自分の価値観や信念を変えていく
思い込み
―――幼い頃に影響を受けた刷り込みが価値観を固定し雁字搦めになり、幅を狭める
―――「こんなんじゃダメだ」と自分が満足いかなくともなるようになってしまうのが人生
―――高学歴・高収入が勝ち組=幸せではなく、等身大に身を置いてしっくりくる充実した生活を幸せと呼ぶ
―――「これが正解」みたいな生き方は無く、世間というフィルター越しに見ても絶対的に悪いということはない
学生時代のアルバイトで仕事や人生に知て役立つ経験を得たエピソードがいくつかある。ある人はアニメが好きで制作会社に入ったものの低収入、残業は何時間にも及ぶ過酷な現場で辞めて日雇いの派遣会社に登録して日がな紹介される仕事をこつこつ行うことで生きている人。ある人はもともとエンジニアでめんどくさくなって辞め、百貨店とその他の複数のバイトを掛け持つことで生計を立て、子供数人と奥さんを支えている30歳の旦那さん。また扶養家族になるであろうおばあちゃんが派遣でいろんな仕事を行うことで日々を楽しんでいたり、ある価値観に囚われてしまえばみじめかもしれないが、生活面においては気楽になったという人がほとんどだ。結局、生きやすいか?面子を保てるか?が極となったやじろべえでしかなく、どちらに転んだにしろ、どちらかに転べたのであれば成功を下回ることは無い。
―――酸っぱい葡萄理論でできなかった・しなかった過去を正しいと思い込み自我を保ちたい
―――平等を目指すはずがかえってあらぬ誤解を危惧する羽目に
―――周囲も自身も暗示にかかっている
別途記事「なぜ人はマウントを取るのか?」でも触れているが、マウントを取る人・人に無能レッテル貼る人は自信がなくメンタルの弱い人間である。自分より格下を生み出すことで自身が批判の的になることを避け、自分はまだマシだと安心しているに過ぎない。しかし、次第にエスカレートし、本当に自分が有能であると錯覚し、無能レッテルを張った者に対して心底呆れ嫌うようになり、周囲の認識も次第に当人に”無能”の烙印を押すようになる。一方で、当人も周囲の反応を受けて自分は無能であると錯覚し、本当にそのようになってしまうのだ。
周囲の反応もマウントを取る人間に対して恐れを抱いているため、同様にして当人に無能レッテルを貼る。このような連鎖反応により、真面目で優秀な人間が無能レッテルを貼られて廃人となって職場を去り、残った人間及びマウント体質が組織体質となった職場が出来上がる。ずっとその職場に残っている新卒組が中堅管理職になった場合、多様性がマウント体質のみとなることで、新たに入る新卒が組織体制に対する疑問や悩みを周囲に相談しても諭されるだけであり、残ればマウント体質。去れば廃人となって自信喪失のまま退職というケースが常態化する。特に体制の整っていない中小企業やスタートアップメンバーで構成された新規ベンチャー企業などはこの傾向が見受けられる。
思考停止
―――落とさずに放っておいた汚れはこびり付いて二度と落ちない
周囲に乗せられてお山の大将になった者は、多様性を持った新参者を拒み、自己の偏見を世の真理として強要し、イエスマンだけを集めて囲うことが多い。取り巻きもおこぼれをあやかりたい人間で構成され、カルトのような組織が出来上がる。
発端としては、自分のコンプレックスを「これが正しい」と正当化し、それに自身が納得するために周囲に強要し、囲うことでこれが成り立つ。年を得て組織から外れたお山の大将は、会社組織の役職・立場やローカルルールを常識であると錯覚し、コンビニ店員や周囲の赤の他人にも同様の行いをすることで、世間とのズレを感じながらも決してそれを認められず孤立化して何も残らないのだ。自身が媚びへつらってきた上司は先立ち、自分の背後には今まで無下にして来た部下が押し寄せていることに気付くべきなのだ。
このような思考停止状態は、不安により勇気が出ずに行動できなかった者が、当人が容易に考え付く不安要素である批判や失敗を行動する者に対して投げかけるケースが多い。不安の先にある成功の選択肢を先取りして羨み、行動する者・出る杭に対して打ち込むことで「行動したらこんな風にみじめに散っていくんだ」と自身に納得させる、酸っぱい葡萄の自己正当化に過ぎない。平たく言うと、経験してもいない出来事に対して学習性無力感を感じているのだ。
―――パワハラ上司の「俺が苦しんだんだからお前も苦しめ」の別解についての考察
先輩社員がパワハラまがいの行為で適切な指示を出していないことは、過去に自分がそのようにして育ったということ以外にも、昔の頃の自分と後輩社員を重ねて過去のそのような日々を懐かしんで行っている可能性も高い。インパクトのあった日々だからこそ、今の刺激の無くなってしまった会社に刺激を求めてあの頃を現在に再現することで満足しているのだ。その証拠に、その先輩社員は昔から付き合っていた上司や部下とべったりくっついていて、上司の前では後輩のような顔をしている場合が多い。
これは憶測だが、昔の時代はネットが発達していない分、規制も少なく、ネガティブな意見に触れる機会も少なかった。故に今以上に自分たちのテリトリーで何も不安に思うことなく心から楽しむことが出来たし、今のようにインターネットに幸せそうな自分をアピールして自分が恵まれている実感をする必要もなかったのだ。ネットによる情報源がなく情報過多でないため、正解もわからず、誹謗中傷を恐れて周囲の目を気にしたりもせず、自分や仲間を信じて素直に生きていくことが出来ただろう。そのため、昔のように刺激がなくネガティブな話題ばかり目立つようになった昨今では、回顧的に今の未来のある若者を数十年前の当時の若者(若い頃の自分たち)に重ねて若さを羨んでいたり、必要以上に自分が正しいと信じて疑わなかったり、ジェネレーションギャップを想定せずに当時の感覚で接してしまうということだ。そのような先輩社員は過去の自慢話をすることが多いが、自分はこのように育った、当時はこうだったという話が多い。つまりそれは、過去の楽しさや刺激に懐古的になり今のどんどんオッサンになっていく自分に耐えられず過去を引きずって現在にそれを見出そうという悲しみの表れなのだ。もうあの頃の自分は現在には通用しないのだという悲しみを背負ったシーラカンスのような存在と言える。
―――"偉い立場"は社会的役割を超えて私生活にも影響が出てくる
―――自分が偉いんだという状況に胡坐をかき、自身は何も変わらず受け身
下記Tweetはツリー状になっているので全文読んで欲しい。内容は震災被害で皆被害者である状況の中、自分だけが被害者であるかのように自分以外の人間に対してこき使うそぶりや自身の感情の整理が付かないのを他人を当てつけにして非難する人たちの様子が描かれている。
震災という状況下によらず、現代社会はいかなる場面で自分だけが、あるいは自分の方が苦労していると感じる人が多い。全体の流れではなく受け手としての個人である自身に焦点があってしまうことにも要因がある。
―――自分の中に正解のアクションを持ち合わせているでもなく感覚だけで安易に他人の言動に物申す
失言と言わないまでも、好意的なアプローチとして他意なく放った言動が奇しくも悪いニュアンスで読み取れてしまう場合、発言者も聞き手も周囲も気まずくなるが、「そういうつもりで言ったのではないんだろうけど…」と全体的にはその辺のニュアンスは汲み取れたり考慮するものだろう。だが、そのような状況や考慮なしに安易に意図して嫌悪感を向けて意趣返しを行うことも中にはあるのだろう。ここまでは理解できるが、嫌悪感を抱いた代償の当てつけに文句を言い、状況や相手の意図は加味せず、かつ「どうすればよかったのか?」の問いに対する答えさえ相手に押し付け、自分は一切悪くないの主張が行えるのは、潜在的に上下関係のような明確な立場が生まれてしまっているような気がする。
―――思考のエレベーター
上記の別解にもなるが、立場が変わると同じ世界でも見えてる物事が180度変わる場合がある。たとえば、自分も新人だった頃を忘れている先輩社員は自分がかつて言われて嫌だったことをそのまま後輩社員に言ってしまっている場合がある。その訳が、自分もそういわれてここまで来たのだという信じ込みもあるだろうが、自分がある程度仕事のイロハがわかって責任のある立場になったことで周囲の見え方が変わったということにある。山は遠くから見れば高いが、ふもとから登っている時には悪路や危険といった困難がある。しかし、山頂についてしまえば疲れは体感しているものの、山頂から見える雲海の美しさや周囲の山々の光景に見とれ、それまで歩いてきた過酷な未知のことを忘れてしまっている(見えなくなっている)状況だろう。同一の人であっても、自分の置かれた立場などで考え方が大きく変わってしまうのだ。
―――大衆になじむことが真理だと信じ込み、抑圧した感情が爆発した際の反動が被害を起こす。
中学の頃の遠足の帰りにカメラマンのオッサンと乗り合わせ「真面目なやつよりふざけたやつの方が人から好かれるんだ。たとえば、女子のスカートをめくったとして、真面目なやつからは『何やってんだあのバカ』と言われ、女子からは嫌われる。でも、男子からは被害を受けずにラッキースケベ見れたと賞賛される」という話を聞いた。
ある意味自分が子供だったから、今よりネット文化が発達していなかったから聞けた話なのかもしれないが、続けて「やっぱり大人になって『あの頃は散々な目にあった、スカートめくりはもう懲りた』ってなるけど、真面目なやつは『あの頃あんなことできなかったな…』って大人になってから暴走するかもしれない。テレビニュースの殺人とかの犯罪を犯したやつは真面目そうな大人しそうな奴ばかりって報道されるじゃない?」とも言っていて、確かにうなずける話だった。
よく巷で騒がれる意見の一つに「ゲーム禁止の家庭で育った子供が勉強で伸び悩んで吹っ切れた時、反動でゲーム廃人になる」というものがある。一種のカリギュラ効果に似ていて「押すな」と言われると押したくなるのと同様に、禁止されるとより一層その考えが頭から離れなくなるのだに見えてしまうのだ。
―――どっちつかずの意見・思想を大衆の流れに委ねる
誰かがテレビにてニュースによくある街の声を要らないと言っていたが、バイアスをかけずに、何のフィルターも通していない情報を得るのは極めて難しい。どうしても負の側面に意識が持ってかれがちだが、経験上ネガティブな思惑に従っていて報われたと感じることは少なく、ネガティブになると自信やバイタリティを失って委縮する。その不幸を免罪符に成り立つ社会は嫌だし、他人が自分を理解するのも他人を理解するのも無理な話で、どこかしらフィルターが入る。自己を保つためには、得た情報を自分の中で解釈し、自分で判断が下せるぐらいに冷静で安定していることが大事だろう。
―――個人的な偏見・感情を屁理屈で正当化し、証明書のように扱う
―――一方的な思い込みの範疇から抜け出せずに他の可能性を探れない
下記Tweetについて、ネタとして書いているのか、叶わぬ片思いを成就させたいことへの素直になれない裏返しなのか、一方的でストーカー気質さえ垣間見れる。
―――時代背景に合わせって思考はアップデートされる
―――フレキシブルな思考を
多様な考え方
―――複数の視点をもってすれば解釈違いの事実が複数存在することになる
―――人間皆、謙虚に見えてもプライドを内に秘めている
隣の芝生は実際どんなに荒れていようが青く見えるものだ。儲かっていない借金まみれのネットワークビジネスの会員が、見栄のためにローンを組んでブランド品の身に付けたり高い車に乗っているのを人に見せたりしているが、実際はレンタカーなどといったケースがあった。後述するが、ないものねだりで羨ましく見えるだけで、実際は自分と同等または自分の方が恵まれているケースも多い。
また、資産を持っている人がどんどん儲けるように、気持ちにも余裕がある勝ち組の人はどんどん成長していく悲しい事実がある。
一見楽しそうであったり過去の楽しさを引きずっている人は、その人自身のポテンシャルとしては満たされているはずなのに過去との相対比較から現状に満足できずにネガティブに感じる人は多い。それは若さや時間といったものを人と比べ、羨んでいるないものねだりに過ぎないケースが多い。
二兎を追う者は一兎をも得ずという言葉があるが、実際は追いかけていれば自然とどちらか一兎に決まるものでそれがどちらになるかと言うのが問題だ。その片一方の兎を他者は羨み、自分の選択が正しいと信じたいがためにアピールに働きかけるのだ。
―――捉えようによってはいくらでも解釈できる
―――人間、素直になるのは難しい
多様性
―――狭いコミュニティー内での生活を世の中の一般だと錯覚してしまう
―――多様なチャネルを持つ・常にアンテナを張る
井の中の蛙やお山の大将では広い世界を深く理解できないまま過ごしてしまう。今理解できるでないにしろ、多くの経験をしておくことが後になって理解を深めるスパイスとなることが多い。
―――多様な考えの中で衝突する考え
―――そのダブルスタンダードは矛盾か?解釈違いか?
―――多くの個人の共感にはバイアス・自己フィルターがかかっている
―――善悪で語れない世の中
―――正論は言った相手が救われなければ嫌われる
正論が嫌われる理由の一つとして、図星を突かれることで今まで守りにしていたプライドが崩れることで、それを言われた相手は今まで渡ってきた橋が壊されて先に進めないような状態になることから身を守るためだと言える。そこでいきなり価値観の違いが露呈しても相手の意見には素直には賛同できないのは、それをできる・できていた人以外にわかっててできないと自覚している人の間に大きな壁があるからだ。同じことを言うにしても言い方のニュアンス次第で大分印象も変わるため、本質を突かれることではなく、それを批判的なニュアンスとして受け止めて攻撃から身を守る体制になっているだけに過ぎないのだ。
―――独創性の根底にある嫉妬、出る杭は打たれる風潮
前述の思考停止にも似た話だが、新たな出来事というのは前例がないため参照すべき出典が少なく、判断がしづらいことによって憚られる。そのため新規性のあるものは不安要因が多く、どうしても粗探しに意識が向いてしまう。ましてや既存コンテンツの応用ではない場合は、とっかかりとなる要素も含まないため、興味を抱きにくく、関心の無さから否定的な文面から意見が入るケースが予測される。一方で、内情はわからないものの感覚的に凄そうだという印象を受ければ、何か粗があるだろうと疑う心理が働き、どうしてもその成果を信じられないものなのだ。
上記は前例がないことをそのまま推進していく中である程度の評価を受けてようやく認められた例だが、新規となる穴場を開拓したということは羨ましがられることであり、それを否定するということはその才能を持たない自分と比較して優れた相手を否定しなくては自我が保てないという日本人の精神の脆弱さにも起因する。
また、個人的な見解として、嫉妬と憧れ、尊敬のニュアンスの違いには三段階の下記のフェーズが考えられる。上記事例にも似ているが、手の届かないかつこちらが理解できる範疇で物事を革新していく様が評価の対象になるのだろう。
認識
―――誤った認識か?疑いの目を向けているのか?少数派の認識
CMで一時期問題となった「米を洗剤で洗う人がいる」や「切り身の状態で魚が泳いでいる」といった誤認識があるが、ガリレオによって天動説が唱えられて以降の21世紀でも地動説を唱える人がいるようだ。
―――誤認が広まればそれを常識と見なして簡単には変えられない
ガリレオの「それでも地球は回っている」と同様に、宗教的観点もあって天動説が主流であった時代に地動説を唱えるのは革命的出来事だっただろう。習慣的に閉鎖的組織に属してそこでの通念が定説となれば狭い村社会ではそれが常識となる。それは社内でもネット上でも変わらず、一部のコミュニティで見受けられる事象ではある。
こういった場合、自分の意見を主張するより「なぜそう思っているのか?」という相手への疑問を元に原因を突き止め、相手の不信感や心配事について釈明していくのが正攻法となる。
―――特殊な共通認識
下記に「ネギはキューピー人形の味がする」という認識の引用を見てゾッとした。幼少期にキューピーの人形を誤飲した際の記憶なのか、著者も何となく理解ができるしそのイメージがある。しかもただの人形ではなくキューピー人形であるところもミソだ。確かに、その方がわかりやすいし、人形の流通性の関係もあって強く印象に残っているのだろう。
プルースト効果と言って、匂いによってその当時の記憶が思い起こされるという嗅覚の特性があるようだが、味覚は嗅覚で記憶されているという話もある。また幼少期の方が味覚に関してはより敏感であるようだ。
―――人には人の人生
新卒で入った会社の常識を社会だと錯覚するように、自分が今まで生きてきた人生の蓄積が一般として錯覚して相手にも同様の認識を持つものだと思い込む。それを許せないというよりも今まで自分が普遍的だと思っていた事象が違った場合のショック、アレルギー反応なのだ。
下記はペースメーカーが現在携帯の電波の影響を受けないということを知りつつ「理屈ではわかっているが精神的な不安はずっと残っている」状態の方の話だ。前述の「正論は嫌われる」の話と同様、スマホは安全だというのは正論だが、感情的には受け付けられないのだ。当事者にならないとわからない不安が沸いている状態ではある種馬の耳に念仏なのだ。不安を取り除くと言ってもその不安は今すぐになくなるものではない。
―――認識の違いによって評価が180度変わる
―――特殊な現象
「これって私だけ?」というような自身が抱える疑問は割とあるだろう。それ故にSNSや情報などで自分の立ち位置が不安になるのも無理はないだろう。ある程度のあるあるネタはマーフィーの法則のようなものに当てはめられるだろう。
似たような事例として有名なもので「青木まりこ現象」なるものがある。1985年に雑誌の寄稿にて寄せられた「書店に立ち寄ると便意を催す」現象について、寄稿者の名に紐づけてそう呼ばれている。原因は現在も不明ではあるものの、同じような経験がある人も一定数いるようで、本屋に限らなかったり便意に限らなかったりする。
また似たようなものに「光くしゃみ反射」(出典:http://www.kuchiiwa.jp/dl/profile/11.pdf)というものがあり、太陽光などの光刺激を原因にくしゃみを誘発するという現象だ。
☟下記のように成人してから自身の特性に気付くということもあるようだ。
友人が「世間的にしてはいけないとされることをしたいと思ってしまう」ことを何かの病気のように思っていたようだが、カリギュラ効果なるものがあり、それに基づいた一般的な真理であることがわかって安心したとの旨を述べていたことがある。情報や知見を得て己を知り、安心するという作用はあるようだ。
―――人はないものねだりで批判する
一見どんなに満たされているように見える人でもないものねだりは人間の根源なのだ。目標というものは得た瞬間に喪失感を得るもので、新たな目標を継ぎ足して自転車操業していくのだ。人は他人からの批判的行為を避けるので、格下の者にマウントを取って牽制し、ないものねだりで自分より優れた者を当てつけのように批判して自我を保っている。満たされるか満たされないかはその人次第であって、永遠に際限のないものなのだ。人は自信及び自分の道がこれで間違っていないだろうという確証が欲しく、このような行為に走ってしまうのだ。人は持っていても持っていなくても同じように苦しみを抱えているのだ。自信とはその人が正しい道を最も効率よく駆け上がっていくための核なのだ。
差別
―――安易な言葉狩りで何も変わることは無い
―――自身の定義を世間一般の代名詞・大きい主語で通そうとすることで複雑化し、遠ざかる理解
人種差別問題にも言えることだが、対象となる被差別者ではない第三者が代弁者であるように「こういった表現は嫌がる人がいます」と主張する場合があるが、逆に被差別者となりうる対象の人間が肯定的な姿勢を示すこともある。差別というのは捉え方であって、自身は不快に思っておらず、こういった接し方によって受け入れられて周囲と分かち合えたというメリットと称する少数意見を断絶しては、ノイジーマイノリティー(ここではマジョリティとなる)の中でマイノリティが追い込まれるという問題が新たに生まれてしまう。傷付く人が多数いるからこういった表現は避けようというのは頷けるが、肯定的な被差別者もいる中では単に個人として見たときに嫌がる人にはそういった言動を行わない、また、そういった表現は個人のものとして公人やオフィシャルなメディアでは用いないようにし、強要や多用は厳禁とする方が望ましい。そうでなければ、人種という人括りにして個人の問題に向き合わず、大きな主語で片付けているだけになってしまう。
一番問題なのが容姿や生まれ、キャラクターに対しての差別的表現や接し方だが、これらはメディアでも"いじり"として面白おかしく捉えられ問題視されないことが問題である。大きい主語の方が注目を浴びやすく、やはり個人に対してまで目は向けられていない印象である。最も差別で問題なのは、表現のみならず、扱い自体がその他大勢とは明らかに違うぞんざいな言動が為されるといったヒエラルキーが明確に分断されている点にある。
―――社会的に弱い立場を利権として利用して無理を通そうとする行為が起こる恐れ
―――一方の立場の肩を持ったところで問題は解消されない
―――差別する者を排除してもなお差別を生む
―――交錯する被害者意識・加害者意識
下記のはてなダイアリーは「何もしていないのにいるだけで女子にキモいと言われる」投稿主の話だ。このように自分が無自覚に加害者とされ、次第に自分は気持ちが悪い人間だからもっと気を付けなくてはという精神状態に陥り、自分が被害を受けているとも思えずに病んでしまったようだ。
―――「キモい」という発言について
相手を傷つける意図ではなく、発言や行動に対するツッコミとして用いられるケースも多い。安易に規制を掛けるのは頷けないが、差別的表現として規制されるわけではないので多用されやすい発言と言えるだろう。
「キモい」と言う発言が出る理由の一つとして、自分がそのもの自体をよく知らない当事者であるという面が挙げられる。
その理由として、まず第一印象が大事とはよく言うが、基本的に第一印象は良い方に転ばないということだ。というのは最初にその人を見る時は相手がどんな感じかわからず不安であり、粗探しのように見るため、悪い要素の方で受け取ってしまう恐れがあるからだ。誠実な心意気で相手に挑んでも、表面に出たものが周囲の評価に反映されるため、結果的に「なんでここまで誠心誠意の態度で接したのに!」と胸の内とのギャップに苛まれる。
個人的な話だが、昔、萌えアニメやカートゥーン系の絵柄が生理的に受け付けなかった。その内訳としては、どこかCMなどの短いフレーズから得る印象でエロ・グロといった下品で不愉快なものをギャグとする要素を持っていたからだ。キャラクターのデザイン自体も目が異常に大きかったり、ヤンキーが着る服のような蛍光色を放っているのも受け付けなかった。ただ双方実際に作品を最初から見てみると、ストーリーが割としっかりしていてテーマがあったり、そこから派生してキャラクターにも各々の良さが見えたり、絵柄から想像するような下品さはなかった。あくまで部分的にそのような箇所が悪目立ちしてるだけだったのだ。
以上の件も踏まえて、相手のことをよく知らないという部分にアレルギー反応を起こしているのだろう。相手を知った上で本当に拒絶反応を起こしている時は「キモい」ではなく「無理」といった発言がされる場合が多い。「キモい」というのはあくまで印象であり、表層部分しか見ずにレッテル貼りしただけのものだ。その発言が本心から蔑視した上なのか、ツッコミや冗談としてなのかも重要だが、いずれにせよその辺の考え方に信頼性のない人、もしくは親しくもない相手に対して安易に発言して良いものではないだろう。
―――差別は悪ではなく、正義と別の正義が拮抗して生まれる
―――「のび太の癖に生意気だ」を地で行く昨今
―――被害者も加害者も事実を見れば明らか
―――ハラスメントはハラスメントにあたらないのか?
差別問題にも同様に言えることだが、ハラスメントについて取り扱った場合、基本的にお互い対立する立場での各々の正当性や被害者意識を披露する場に成り下がり、結果的にあっちが悪い・悪くない問答になるのがオチだ。
そもそも、ところ構わず悪意を感じたものに指を指してハラスメントと称する、ハラスメントハラスメントという落語めいた言葉も存在し、抜本的解決ではなく臭い物に蓋をする対策で済ましてしまっているのが問題なのだ。
パワハラにも上司から部下へろくに面倒も見ずに叱責だけするものから、部下から上司へ「使えない」扱いや勝手に指示に背いたりといったものがある。ハラスメントと言えば問題点を取り上げて組織の改善に努めるための課題の一つであって、個々に言い合って自分の権利を主張し合うものではない。ただ実際問題、こういった講習を受けた後の組織というのは上司は独自の解釈をして依然として変わらず各々が自分の自己保身の方に走り、改善はそもそも期待していないのがそもそもだ。
持論
下記にはネット上でいくつか見つけた人生における持論だ。
―――常に人にやさしくと言うのは難しい
―――自分に嘘をついてごまかして生きること程ストレスになる行為はない
―――嘘も方便
働くことが辛くても仕事によって社会参画していかないと衰えていってしまい、自身も辛くなってしまう。自分が仕事によって努力し、徐々にスキルを伸ばしていくことに満足していくしかない。
―――その「頑張った」は努力か?苦労か?徒労か?
努力して苦労して生きてきた結果がこれか、という問については、結論からすると不満を抱えながらも現状維持を貫いて変化を恐れてきた者の言葉であり、努力はしていないのだ。与えられた種を撒いて豊作して豊かになるでもなく、それをそのまま食べてはまた「ひもじい」と言ってそれをねだり続けるでも空腹に耐えるでもして生きたに過ぎない。アリとキリギリスでいうキリギリスであり、怠惰故に苦難に対策できず、かと言ってキリギリスほど面白おかしく生きている訳では無い。短命ならば努力もせず楽しさを求めて生きるだろうが人生はそこまで短くない。表に映る行為が好意的でないにしても、心の内には改善の意を込めて、思いやりを持って他人から感謝され、快く思われるような生き方をした方が、本人も幸せだろう。
―――努力や苦労も関係なく生まれた時から約束されていた人種
―――マンネリは平和の証拠
ガンジーが言っていたが眼には眼を歯には歯をは正しいとは言えない。正論ではあるだろうが、それによって救われない例が考えられる。極端な例だが、家族が事故で病院に搬送されたという一報が入り、車で急いで病院に向かう際に人身事故を起こし、それでもなお病院に向かったとする。そこで家族がなんとか一命を取り留めたことを確認して安堵すると同時に、自身も事故の加害者になったことを自覚したとする。そこで被害者遺族の方から強く批判を受けるが、ここで自身の家族が事故によって一命を取り留めていなければ平等の立場であったと言えないのは明白だ。自身の家族を失う悲しみは別の何かを犠牲にすることで埋められるもので無いからこそ、喪失感が強く奪った者に対する憎しみが強いのだ。同じ目に逢って欲しいではなく、できるなら失った家族を取り戻して平穏な日々を戻して欲しいの一択なのだ。そこで平等の立場として、双方が同じように家族を失って両者納得など言語道断で、悲しみに暮れる人を増やしただけに過ぎず、誰も救われないのだ。
また少し付け加えると、まず前提としては、家族の安否を伺うために病院へ駆けつける際にも安全運転は心掛け、そこにパトカーが追走していれば急ぎたい気持ちを押さえ込んで運転し、その上であと少しのところで間に合わなかったとしても、最低限を守った上で叶わなかったと悲観するしかない。ましてや重要な任務を任されている時に急にその一報が来て駆けつける際には、その仕事さえも疎かにして失ってしまっている。2つを失う悲しみは計り知れないが、二兎を追えないケースだ。仕事を済ませてから向かっていれば、もっと急いでいればと後悔するかもしれないが、先のことが分からない上で自分の中で正しい選択をし、それでもなお上手くいかなかった場合は正しい後悔と言えるだろう。出来る限りを尽くして上手くいかなければそれは不可抗力の範疇だ。ただ、祈りは最後の最後に行うもので、自分がそこで思い付く可能な限りを尽くした上で行うもので、祈ったらそこで最後なのだ。
物事が便利になればそれはやがてマンネリ化し、悪い部分が見え始める。しかし、それは平和である証拠だ。そこで新たに改善すればまた悪い部分を見つけてはブラッシュアップして改善していく。欲しいものを手にすれば急にそのものに対する興味が無くなり、新たなものを手にする。目標達成すれば燃え尽き症候群になって、やる気を失う。ただ、そこで新たな目標や夢を見つけて改善に向けてまた走る。このサイクルが人生であり、永久に隣の芝生は青い。上手くいかないもどかしさを感じながらも手を尽くし、それでも無理なら別の視点から行動していく。何事にも改善には動きが必要だ。
―――賽の河原のように今まで積み上げてきた経験則と自己の石を崩されてはまた積み上げていくことの繰り返し
人生には往々にして「こういうことがあったから今後はこうしよう」という結論に至ったとき、別の場所ではそれが通用せず、皮肉にも改善前の問題としていた事象が定説として定着している場合がある。あるクレームに対応して改善したら別のクレームが発生するように、自己は安易に外部に左右されるのではなく、常に正しいと思う軸を基準に考えなくてはならず、その軸は普遍的に正しいとなるものでなければならない。これまでを生きてきた人は各々十字架を背負っており、叩いて埃の出ない人間はいない。後悔のない人生や完璧主義の100%無駄のない人生は不可能なのだ。バイキングで食べたいものを腹八分食べて満足感を得ることが元であり、より多くを食べて原価を超えることが元を取るわけではなく、腹を下したら元も子もない。
―――幸せや目標は通過点であり、達成してもまた更新され、満たされない
子供の頃は少ない資金で十分楽しむことが出来た。それはまだ利害関係や偏見のない幼少期の純粋な楽しさを求める好奇心から来るものであり、新たに知り得る発見が多いからこそ新鮮で1日が長く感じたのだ。大人になると様々な制約が生まれ、気持ちを抑えて偽り、大人を演じたり体裁を気にするようになる。これが問題であり「あれもこれもできる」状態になったとしてもそれが普通になってしまえば新鮮味は失われ、マンネリとした日々に刺激を求めてフラストレーションを蓄積していく羽目になるのだ。
―――素直な自分を解放できればそれは自由であり幸せ
―――人生山あり谷あり、経験は数打てば当たる
人生は大樹で進んでいく毎にいくつもの枝分かれがあるが、そのすべてを通ることはできない。家族、友人、資産、功績、体験…各々が様々な要素を持っており、最後まで目標・悩みを養分としてもがき続けながら成長し続ける。選んでいった先にあるのはどれも同じ実であり、自分自信が最後に残る。その時に振り返って自分自身で認められる自分であるかどうかが重要でる。
―――人生はマラソンではないからその時々の状況や景色を楽しむ
人生もマラソンも自分の意のままに景色や周囲の人を変えることが出来る訳では無い。ただ、自分のペースを守って走っていればバテずにゴールにたどり着き、序盤で自分をバカにしてた人たちも終盤で追い上げられるかもしれない。ただゴールしてもそこには順位はなく、待ち構えている人もいないのが人生。人によってゴールも違う。自分の軸がしっかりしていれば人を追い越そうと無理しても良いし、遅い人に合わせて走ってみても良い。この人生のマラソンは順位などではなく、走っている最中に写る景色や出会った人にドラマがある訳で、そこが醍醐味なのだ。走り終わったあとに達成感があるものでは無い。走ってる最中に〜があった、〜の景色が良かったと、多く感想が出ればそれほど充実しているとも言える。自分が正しいと思う考えを貫いて走り抜くのもひとつだが、人生≒マラソンであって、途中転ぶかもしれないし、置いてけぼりになるかもしれない。景色も一緒に走っている人たちも変わってゆく。時代の流れに伴い、人や景色は変わる。そこで自分のペースを保って前だけを見て走っても良い。ただ、そんな人生を楽しいとか充実したと思えるかは別だ。途中に見える景色にときめいたり、近くを走ってる人に目を向けたりして自分を鼓舞し、楽しむところに趣がある。来た道を戻ることも出来ない。完走したところで何も無い。ただ、完走するまでに得た心境の変化や出会いが人生のすべてだ。自分を信じて周りを顧みずに完走したところで、インタビュアーやゴールテープを握るものも待ち人もいない。最期は1人だ。そこを分かって走るのが人生のマラソンなのだ。
―――人生山あり谷あり
参考・関連文献