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「太陽族」は存在したのか?

「太陽族」と呼ばれるトライブがあるそうだ。少なくとも週刊誌や、マスコミ的には昭和30年代の湘南海岸には「太陽族」と呼ばれる不良の一団がいたことになっている。その言葉の生みの親は『太陽の季節』を書いて一大センセーショナルを巻き起こした石原慎太郎ということになっている(この呼称は別項でも触れたように大宅壮一が命名した)。慎太郎が若くして芥川賞を受賞して(1956年1月。1955年『文学界』7月号掲載。秋『文学界』新人賞受賞)、立て続けに執筆活動とともに映画脚本、出演、果てはみずからメガホンを握ると言う強靭なバイタリティを発揮し始めた頃、インモラルな太陽族映画を観た若者たちが風俗として映画を真似たような性犯罪、暴力事件が湘南で頻発し、やがて映画の影響力を看過、無視できなくなった映画業界では性犯罪的シーンや、暴力を唆(そそのか)し、また未成年への悪影響を恐れて扇状的なシーンを自主規制する事を決めそれが「映倫」に繋がってゆく。「映倫」が生まれたトリビアだ(笑)。
当時の週刊誌記事によると「太陽族」は、一応に「①慎太郎刈り②アロハシャツを着用③濃いサングラス④ストローハット⑤ナンパを主な目的としてたむろっている」の一団であると言う。慎太郎小説を原作にして次々と制作されたいわゆる「太陽族映画」の主人公や、出演者になり切って真似をしている若者たちのことであるらしい。

確かにその頃、指定された「ファッション・アイテム」に身を固めて湘南海岸や、江ノ島、由比ヶ浜に夏になると繰り出す若者たちは存在した。たとえば、ボクがよく「劇画誌」や、「漫画誌」を借りていたウチの目の前に突然出来た(ほぼ一日でそのベニア囲いの小屋は出来た)「貸本屋」の亭主は年の頃20代半ばの青年で、真夏になると貼り紙一枚を店のガラス戸に貼り付けて長い長期休暇に入るのだった。その頃、「貸本屋」のお得意さんの一人だったボクは、12歳で文京区の坂の上にある小学校に転入して3年目くらいの小六だった。母が再婚した電気工事を生業とする男と同居しはじめ、男の姉妹と実母が住む坂の上の家にも出入りするようになり、その義理の叔母にあたる女性が浅草の「大勝館」でモギリの仕事をしていてよくロードショーをタダで見せて貰った。1960年(昭和35年)7月その義理の叔母が、夏休みに入ったボクを海水浴へ連れて行ってくれたのだ。義理の叔母はお年頃のムッチリタイプだったから、湘南で男たちが声を掛けてきた。なんとなくガキとは言え男同志という事でボクのことも可愛がってくれたものだ。その時の写真がこれらの写真なのだが、一体彼らが「太陽族」だったのだろうか?
別に海水浴場に行けばどこにでも居そうな青年たちだった。石原慎太郎が逝去して、享年89歳だったから「太陽族」もこの頃の青年たちももはや80歳を超えている。62年も前の風景なのだ。
「太陽族」の実態とはこんなものだったと思う。彼ら、この世代の青年たちもまた、自分たちのアイディンティティを表現する表象が欲しかったのだ。それが「太陽族」「慎太郎刈り」に飛びついた心情だったに違いない。
「太陽族」とは当時、新興メディアだった週刊誌、マスコミが慎太郎ブームに便乗して売らんがために作り上げた幻想、でっち上げのトライブ(族)だったのだ。
(アイマスクで顔を隠していない痩せこけた少年がボクであります。😂)
#boy #age #1960s #solartribe #tribe #太陽族

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