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最後の晩餐

「最後の食事に何を食べたいですか?」
そういう話題がでた。
「母の料理を食べたい」
そう答える人が何人もいた。
実際、ずっと食べ慣れている母親の手料理を最後に味わいたいと願う人は多いことだろう。
それを願うことが出来る人を、私は羨ましく思う。

私が母の手料理といって思い出すのは碌でもないものばかりだ。
まず頭に浮かぶのは、腐って酸っぱくなった味噌汁。
金はあるがレパートリーはないから度々出されるスキヤキや刺身の盛り合わせ。唯一のまともな手料理っぽい物は八宝菜の乗ったご飯。
台所にはカビの生えたご飯が放置されているし、パンもカビが生えていないか確かめることは当たり前。冷蔵庫の中にも賞味期限の切れた物、カビだらけの物、いつ作ったのかわからない物。そういう物で溢れていた。
食べる前に、まず目で見て、匂いを嗅いで大丈夫か確かめる。それをしてから食べる。
そういうのが習慣となってしまうのは悲しいことだ。
金はあるから、メニューを考えるの面倒だからと度々出されるスキヤキや、魚屋でアレコレ頼んで造ってもらう刺身の盛り合わせが食卓にのぼる。時には「買ってみた」とキャビアが出されたこともあった。
食卓の用意をすることが面倒くさいと「寿司を食べに行こう」と出かけ、「食べたくなったから」と遠くまで伊勢海老料理を食べに行ったり…
高級な料理を食べられてイイじゃないかと思われるかもしれないが、温もりのある手料理の方が何倍も美味しいと思う。
素朴で「簡単に作ったものよ」と、何度も食卓に登る料理の方が、楽しい思い出を伴って「また食べたい」と思い出されるものなのだと思う。

共働き家庭が増えて、惣菜や簡単調理が並ぶ食卓風景が当たり前になりつつある。
“家庭の味”というものがなくなりつつあるらしい。それでも、それぞれの家庭にそれぞれの思い出の味は蓄積されていくだろう。

幼い頃から台所に立つ事をしてきた。
思い出すのは“母の味”というより自分で作ってきた料理の味。
受け継がれた家庭の味というものはないけれど、何度も作った“私の味”はある。
それだけでいい。

良くない想いを伴うからか、長い間スキヤキも刺身も寿司も八宝菜も嫌いだった。
今は美味しいと、いずれの食事も楽しめるようになった。

「最後の食事に何を食べたいですか?」
母の手料理でも高級な料理でもないかな。
私は、何度も作ってきて味に自信のある、自分で作ったアップルパイを食べたい。

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