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薄っぺらい表象、「パリ」

 パリ。この街は、いろんな表象作品で人々を魅了してきた。それはある意味罪深い。本当の街というものは、軽々しく表象できない。東京だって、スクランブル交差点と明治神宮だけじゃ表せない。なのに観光ガイドでは写真一枚で、TOKYOなり、PARISなりを表そうとする。本当の街というのは、観光客や旅人にもわかるものではない。東京でさえ、わたしは本当が何かを知らない。それでも、薄っぺらの表象されたパリではなく、実際に触れることのできる生暖かいパリを少しでも知ることができるのは、旅の醍醐味だろう。

 パリは、いろんな人がいる。当たり前のように、おそらく出身も違う、ルーツも違う、様々すぎる人々が暮らす街だ。パリは、その分歴史が積み重なっている。ナポレオン3世が整えた街に、それ以前から残るような教会に、最近燃えてしまったパリの原点に。ストライキが起き、その代わりに電動自転車で通勤し、地下鉄は狭く、清掃員や土木業者がそこらじゅうを作業している。世界遺産の前ではまがい物が売られ、美術館は観光客でいっぱい。カフェでくつろぐおじさんは時間が止まったように動かなくて、アジア人のわたしはテラス席に座らせてもらえない。セーヌには恋人たちがくつろぎ、夕暮れ時にはバケットを持ったマダムが歩いている。

 これだけじゃ伝えられないほど、そしてこれ以上にたくさんのことが、パリにはある。ちなみに同じような観察日記の端くれは、いろんな都市バージョンで書けるだろう。そう、街というのは一言じゃ決して表すことができない。だけどわたしはこの街に、文化を通して大きな大きな憧れを持った。それがなければ行く決意もしていないだろう。だから薄っぺらい表象も絶対大事なんだ。フランス・ギャルに、フランソワ・アルディ、ブリジット・バルドーに、ミシェル・ルグランのつくる曲が大好きだ。原点になった映画はレオス・カラックスのものではあるけれど、パリを舞台にしたハリウッド制作のステレオタイプ映画にも大きく左右された。(あれは幻想だと、行く前からわかっていたけど)だけど一番は、ヌーベルバーグの人々たち。ゴダール、トリュフォー、ロメール、レネ、シャブロル...彼らの映画を見漁って、パリはモノクロームで、パリは自由で、パリは前衛的で、パリは美しいと、心から思った。なぜ彼らの映画をあそこまで熱意を持って観れたのか、いまだにわからない。ストーリーもパッとしないし、会話中心にスローペースで進んでいく。おそらく、雰囲気、なのかな。雰囲気。ヌーベルバーグの映画群を取り巻く、雰囲気。それはなんとも形容しがたいほど素敵なものに思えた。実際に街を歩くと、その雰囲気は様々に揺れ動くから、映画のような一貫性はもちろんない。これはどの場所だってそうだろう。でも、この憧れの場所に、憧れを持って訪れることができたのは誇らしいことに思う。帰国して、パリが揺れ動く大きな都市であることがわかった今は、かつてのような一貫した雰囲気を愛すことはできないかもしれない。でも、多くの文化人が作り上げたパリへの憧れは、今日も引き続きわたしのような少女を焦がれさせているんだ。

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