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逃げ道みっけ

 

セーヌ川沿いのベンチでエッフェル塔を眺めながら、「いかに自由に生きるか?」について検討する。答えは出ない。日本では、迫るいろんなリミットに精神キリキリさせてたけれど、ここにきたらそんなことは考えなくて良くなって、と言うか考えることさえ忘れてて、とにかく自由な気持ちでいられた。歩いているだけで認められているような気持ちだ。存在しているだけで、十分ですという感じだ。なぜそう思うのかな。わたしは、この異国では「旅人」(あるいは観光客)というレッテルがバシッと貼られるから。とエッフェル塔を見ながらウンウン考えた。日本で何もしていないと、あるいは日々同じ生活をしていると刺激はなくなるし、なんで生きてんだっけ?と根本的な悩みに襲われる。何かしなきゃ、でも何かがわからない!そんな苛立ちをここ最近ずっと抱えてきた。でも、ここパリではただ歩いているだけで刺激は盛りだくさんだし、やりたいことが次々に湧いてくる。そして全ての行動には「旅人」のコーティングがされていて、どんな行動でさえ正解になる。たとえセーヌのほとりでぼうっとしていても、たとえホテルでビールを飲んでいても、それは「旅人」の行動ならば大正解。もはや正解などないと思うし、何をしていても旅という非日常で満足してしまう。日本にいる時の、何かしなければ!なんていう焦りは微塵もなく、息を吸っているだけで人権があるような、そんな感覚。この気持ちはどうしたら持続するだろう。すごく居心地のいい気持ちだから、できれば毎日味わいたい。日本でも違いなく味わいたい。こんな気持ちで毎日生活できるのはこの上ない贅沢で幸せなことだ。


 でも一つ忘れちゃいけないことがある。この自由にもお金をかけている。実際約10万円かけてこの遠い都市まで飛んだ。お金を生み出すために、わたしは働き、貯金した。つまり、自由をお金で買っているということなんだ。そういうと本当に聞こえが悪い。できればそう思いたくないけれど、それは事実だ。しかし、この自由で快適な気持ちが日常生活まで持続するならば、金銭面の心配はなくなる。わたしは引き続き、「日常生活をいかに自由にするか」について考えなきゃならないなあ。答えになりそうなキーワードは、きっと旅。旅をしている時に総じて解放された心になるならば、日常生活も旅に置き換えてしまえばいいのかもしれない。なんだか難しくなってきた。

 フランスはインドと違って全然優しくない国。というかこれが普通でインドが異常だと思うけど。でもコミュ力は上昇したので、ちゃんと店に入ったり好きなようにできた。ロンドンの時は遠慮してしまって好きなことができなかったからね。ただの傍観者に過ぎない自分が悔しかった。それに比べて肩身の狭い気持ちにならずに、旅人代表として街を闊歩できたのは成長を感じさせる。旅を極めたのかしら。もっと旅を、人生で何度も旅をしたい。そう思う。もっと言えば、旅をするように日常生活を生きたい。それがうまくいかないならば、逃げ道として旅を用意しておく。わたしには自由で豊かで居心地のいい、旅が残されているんだ。

 ああ旅というものは、最高で最強の自由な時間。何をしても誰にも責められず、誰にも非難されない。いろんなことがあって、いろんな経験ができ、見慣れない新鮮な景色が広がる。もちろん違いにも敬意を払って、それの背景を考えたり、文化的な観察もする。様々な問題が浮き上がって、たまにとても悲しくなる時があるけれど、様々な刺激を与えてくれるのは旅だけだ。

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