ハロプログループにおける「申し子」メンについての一考察
はじめに
最近、「モーニング娘。って譜久村聖の物語なんだよ」というツイートをTwitter上で見かけた。
昨今譜久村聖への反発が高まるなか、そのツイートは猛批判に晒されていた。曰く、モーニング娘。には譜久村以外のメンバーもいるのだから、譜久村だけに「モーニング娘。」という物語を独占させるのは何事か、という話である。確かに言葉尻だけとらえれば、そう反論したくなるのもわかる。ただ、上記ツイートを書かれた方は自分のヲタ垢時代のffさんで、なかなか含蓄のある物言いを好み、しかもそれを挑発的な形に繰り出す癖のある方であることを自分は知っていた。だとすれば、上記ツイートも額面通り捉えない方がよいだろう、とも思った次第である。だが、その含蓄を読み解くには、モーニング娘。についての自分の教養はあまりに貧弱であり、今回もその件を深掘りするつもりはない。
そこで、少しでも自分の手に負える範囲のことを、ということを考えた。その上で「そのグループが特定メンバーの物語になる」というケースは、自分が推してきたグループにも確かに存在する、と思ったのである。
ただし、それは「特定メンバーがそのグループを独占する」ということを決して意味しない。そうではなく、「そのグループのマインドが、特定メンバーによって最も効果的に体現される」と言いかえた方がよい。「そのグループといえば…」という問いが発せられた時、真っ先にそのメンバーの顔と生き様が思い浮かぶようなメンバーということである。こうしたメンバーのことを、自分は「申し子」メンと名付けることにしたい。
面白いことに、「申し子」メンは大抵の場合リーダーやサブリーダーといった役職つきではなく、事務所が「エース」として推しているようなメンバーでもない。「申し子」メンは決して人為的に生み出され育つものではなく、あくまで自然発生的な現象なのだ。ただ、その自然発生にはいくつかの条件があるようだ。そこで本記事では、近年における「申し子」メンの具体例をいくつか挙げながら、「申し子」メンが生み出される条件を分析していきたいと思う。
「申し子」メン製造機としてのアンジュルム
申し子①:笠原桃奈
笠原桃奈の卒業前、川村文乃はブログに以下のような文章を綴った。
今回の自分の「申し子」メン論も、元々はこの笠原桃奈評に立脚したものである。川村文乃は持ち前の有能さをもって、ヲタクが漠然と抱いていた「アンジュルムにおける笠原桃奈の位置づけ」を見事に言語化してくれたのだ。
若くして卒業した笠原桃奈は、当然リーダーやサブリーダーといった役職とは無縁であった。また佐々木莉佳子や上國料萌衣のように、「エース」として外部メディアへの露出が多いメンバーでもなかった。だが彼女は、今やアンジュルムのアルバムタイトルとなった「BIG LOVE」ミームを最初の喧伝者であり、彼女のブログを発端とした「赤リップ事件」から派生した「好きな色のリップを塗る」はアンジュルムどころか卒業後の和田彩花の社会活動のスローガンにまでなってしまった。そして彼女はアンジュルムの一時代を画すような印象的な卒業公演(詳しくは下掲記事を参照)によってアンジュルムから旅立っていった。蒼井優・菊池亜希子両編集長による異例のフォトブック「Dear sister」もまた、笠原の「申し子」メンぶりが刻み込まれた金字塔と言えるだろう。
では、笠原桃奈は何故アンジュルムの「申し子」メンになったのだろうか?
ここで自分はその内的要因(彼女の能力や性格)について改めて論じるつもりはない。「どのようなメンバーが「申し子』メンになるか」ということはあまり興味がないのだ。自分が興味があるのは、「どのような状況に置かれたメンバーが『申し子』メンになりやすいか」ということである。
結論から言えば、「申し子」メンになりやすいのは、10代前半のうちに単独加入したメンバーである。
その理由はいくつか考えられる。まず第一に、年少単独加入のメンバーは「リーダー預かり案件」になりやすいということだ。ハロプロは、グループの活動方針、活動理念がリーダーのパーソナリティに左右されやすいところがある。しかし同時にグループ内にはその多くは同世代のメンバーによって構成される「期」の文化があり、時にグループ全体の文化とは異なった規定力を発揮することも多い。たとえば船木結と川村文乃によって形作られた「アンジュルム6期」の持つサービス精神は、「自然体」を旨としていたアンジュルム全体の文化とは明らかに異質であり、両者の化学反応が(結果的にはよい方向に)アンジュルムを変質させたものであった。
ところが年少単独加入のメンバーは、そうした「期の文化」を持たないまま「リーダー預かり案件」になることで、グループ理念の体現者たるリーダーの薫陶をより直接的な形で受けやすい。それも多感な思春期初期から年齢の離れたリーダーの影響下に置かれるのだから、それは人格形成の基幹に関わるものになる。和田彩花が笠原桃奈に与えた影響については今更論じるまでもないだろう。
ただしここで留意すべきは、「申し子」メンは必ずしも受動的なだけの存在ではない、ということである。先ほど6期の文化がアンジュルムに大きな影響を与えたことに少し触れたが、同じことは単独加入の「申し子」メンにも起こる。いや、それどころか、「申し子」メンのパーソナリティはただの「期」の文化以上の規定力をグループに対して発揮し始めるケースも多く見られるのである。
その理由には、グループの世代交代、そのグループが大きな曲がり角を迎えたタイミングで「申し子」メンが加入することが多い、というものがある。加入当初の「申し子」メンは当然スキル的には未熟であり、人格的にもまだ形成途上にある。そしてグループも未だ世代交代の地殻変動の中にあり、新たな基軸を模索し続けている状態というのが、笠原桃奈加入後一年くらい(2016年度下半期から2017年度上半期)のアンジュルムであった。
このような状況下にあっては、グループの新機軸は「申し子」メンの成長にかかっていると言っても過言ではない。グループが次の軌道に乗るためには「申し子」メンの成長を待たなければならないため、先輩メンバーも「申し子」メンの育成に一致団結し、彼女の中にどのような人格が形成されるかを固唾を飲んで見守る。そして運営側のプロデュース方針もまた、「申し子」メンの成長と足並みを揃えたものになる。2017年6月にリリースされたカバー曲「魔女っ子メグちゃん」は、まさに笠原桃奈の「成長」とシンクロする形で選ばれた楽曲と言ってよい。そして明けて2018年早春に起こった「赤リップ事件」は、笠原の成長によってアンジュルムの基幹理念が決定づけられた瞬間だった。「申し子」メンの成長はグループの変化と連動し、時にグループの方向性を左右するものになりうるのだ。
申し子②:橋迫鈴
さて、笠原桃奈に次ぐアンジュルム第二の「申し子」メンが、和田彩花の卒業直後に年少単独加入を果たした橋迫鈴である。橋迫の場合も笠原と同じように、二代目リーダー竹内朱莉の「預かり案件」としてアンジュルムに加入した。そして元々橋迫が竹内に心酔していたこと、その加入発表が竹内との紐帯を強調したものだったことを考えれば、その「預かり案件」度合いは笠原以上だったと言えるのだろう(そしてそれゆえに、橋迫の「師からの自立」という「申し子」メン特有のドラマもまた、笠原以上のドラマ性を帯びつつある)。
また、橋迫鈴の加入時期がアンジュルム第二の「曲がり角」であった点も笠原桃奈に通ずるものがある。だが一方で、橋迫が加入後に経験したグループの地殻変動は(コロナ禍による影響を含め)、笠原のそれとは比べものにならないほど大きなものであったことは言うまでもない。そのため、橋迫加入後の一年間(2019年度下半期から2020年度上半期)は周囲の視線が「橋迫の成長」に集まる余裕がなかったことは、笠原に比べて橋迫が不運だった点ではあったと思う。また、早熟な言語能力と優等生的な性格の持ち主であった笠原に比して、橋迫の自己表出が一捻りも二捻りもあるわかりにくいものであったことも大きかっただろう。さらに言えば、笠原の「師匠」たる和田彩花が思想的に雄弁なタイプなのに対し、橋迫の「師匠」たる竹内朱莉は「背中で語る」タイプの職人肌である。いずれにせよ「2017年夏」の笠原に比べると橋迫はまだまだおとなしいなあ、という少しばかりの憂慮を、「2020年夏」のアンジュルムヲタクのかなりの部分が共有していたように自分は記憶している。
だが2020年度の下半期になると、全てヲタクの杞憂に過ぎなかったことが明らかになる。その第一の矢がアンジュルム9期の加入であり、第二の矢が「SHAKA SHAKA TO LOVE」MVの公開であった。このnoteでも何度も取り上げている通り、「自分磨き、止まんな〜〜い!!」と挑発的に歌う橋迫鈴の姿は、その後の橋迫軍団結成と悪ガキ全開化を予兆するものであった。
広義の優等生キャラである笠原桃奈が「先輩との関係性」の中で自己表出できたのに対し、橋迫鈴は悪ガキキャラであるがゆえに先輩に遠慮せざるを得ず、「同格以下」のメンバーの加入を待たねばならなかったということはあるのかもしれない。だが、では仮に橋迫が9期と同時に加入していたとして、今ほどの「申し子」メンとしての影響力を持ち得ていたかというと微妙なのではないだろうか。確かに彼女は最初から奔放に振る舞うことが出来たかもしれない。しかし、年少単独加入の彼女の個性が開花するのを周囲が固唾を飲んで待っていたからこそ、その後の「橋迫軍団」のインパクトはとても大きかったのだ。先輩たちはこぞって彼女の開花を祝福し、初代「申し子」メンの笠原桃奈はその一年後、安んじて橋迫にバトンを渡す形でアンジュルムを去ったのである。
ちなみに「申し子」メンというのは単推しのヲタ人気としてはスロースターターになりやすい。それもそのはずで、スキル的には未成熟、人格的にもまだ未知数な年少メンに単推しのファンがつく理由は少ないからだ。しかし「申し子」メンがグループの未来を担っていることはヲタクも分かっているので、そのグループと所属メンバーを推す全てのヲタクが彼女の成長を見守ることになる。そして年少メンバーというものは絶対に進化することが約束されているものだから、ヲタクが一種の認知的不協和に陥りやすい状況が生まれる。最初は「グループのため/他メンバーのため」に彼女を推していたつもりが、いつの間にか最初から彼女自身を推したいがために推し続けてきたように錯覚し始めるヲタクが現れるのだ。そこにもってきてついに「申し子」メンがその個性を開花させ始めると、多くのヲタクはいよいよ後戻りのできない沼に嵌っていく。何故ならば開花しつつある「申し子」メンの個性とは、ヲタクが推しているそのグループの理念と共鳴するものでありながら、ヲタクがまだ見ぬグループの未来のラフスケッチでもあるからだ。すなわち「申し子」メンとは、そのグループのヲタクに最高度の安心と興奮を同時に提供しうる存在になっていく(この段階においては「申し子」メンが発生させる強力な磁場そのものがヲタクを次々に引き寄せていく)。こうして「申し子」メンはいつのまにかグループで一、二を争う人気メンへと登りつめていくことも稀ではない。
先日ヲタ友の橋迫ヲタが、竹内ヲタの方から「(竹内朱莉の卒業に際して)これからは自分たちではなく橋迫ヲタがアンジュルムヲタクの中心になっていってほしい」と激励されたという話を聞いた。これ自体はとてもいい話だが、一方で自分は少し思うこともあった。竹内ヲタというのがスマイレージ以来の古参兵であることを考えれば、「純粋アンジュルム」時代のヲタクとしての橋迫ヲタの存在感は既に揺るぎないものになっているのではないか、ということである。上述したように「申し子」メンのヲタクというものは、質量ともにグループの中核を担いやすい。つまりアンジュルムのヲタク文化を決定づけるような世代交代ということであれば、それは笠原ヲタと橋迫ヲタの間で既に起きているのではないだろうか。この二種類のヲタ文化は共にアンジュルムを貫く理念を体現しながら、二人の「申し子」メンの個性に応じて、アンジュルムの異なる二つの時代をそれぞれ象徴するものである。そして笠原のそれがアンジュルムの格調の高さを象徴するとすれば、橋迫のそれはその裾野をより広げるものとして機能していると言えよう。いずれにせよ「申し子」メンの持つ力はその所属グループのみならず、そのグループのヲタクをも巻き込んで強力な精神的磁場を作り上げていくということが、笠原、橋迫両ヲタの熱量に現れているのである。
擬似「申し子」メンとしての末っ子メン
ところで「申し子」メンというのは、厳密に言えば特殊アンジュルム的な現象である。(歴史を遡れば後藤真希というレジェンド級の「申し子」メンが存在したにせよ)近年のハロプログループにおいて「10代前半の単独加入」というパターンはアンジュルム以外に存在しないからだ。
そもそも「10代前半の単独加入」という加入パターンは、かなりの難易度を伴うものである。加入するメンバーが抱える不安は勿論のこと、あらゆる意味で当該メンバーの「成長」に責任を持たなければならないリーダーや先輩メンバーにも大きな精神的負担を与えることになる。だが、その初期の段階から絶え間ない世代交替を宿命づけられたアンジュルムというグループが、そのグループ事情ゆえに難易度の高い経験を繰り返したからこそ、ハロプロ一のタフな集団に成長したことも事実なのである。
もっとも最近のアンジュルムは「申し子」メンという負担の大きい加入形式を避けるようになってきてはいる。松本わかなの加入は他の年長メン二人と抱き合わせであったし、平山遊季は15歳の段階で「最年少」ではない形で加入した。また松本、平山ともに例外的に早熟な存在で、笠原桃奈や橋迫鈴のようにスキル、人格ともに未成熟な状態で加入した「申し子」メンとは事情が違う。ただ、歴史を振り返るならば特に松本のパターン(他の年長メンとの抱き合わせ)で加入したメンバー(いわゆる「末っ子」メン)は、グループ内で擬似「申し子」的な機能を果たすことも少なくはない。ここで少しその具体例を羅列してみたいと思う。
佐々木莉佳子(アンジュルム)
松永里愛、江端妃咲(Juice=Juice)
秋山眞緒、豫風瑠乃(つばきファクトリー)
筒井澪心(OCHA NORMA)
「申し子」メンの魅力に①笠原桃奈型(カリスマ的発信力)と②橋迫鈴型(悪ガキ的トリックスター性)の二種類があるとすれば、上に挙げた擬似「申し子」メンたちは、そのいずれか(佐々木莉佳子なら①、江端妃咲なら②)あるいはその両者(松永里愛、秋山眞緒)に当てはまる。また、特に佐々木、松永、秋山は激動のグループ史の節々で印象的な言動を繰り出して人心を掌握してきたし、グループのプロデュース戦略もまた擬似「申し子」メンの加入や成長に大きく左右されてきた(たとえば最近のJuice=Juiceにおけるキュートポップ路線やつばきファクトリーのダンスミュージック路線は、明らかに江端の加入や秋山の成長に足並みを合わせたものだろう)。ただ、彼女たちにおいてはやはり「3期」や「ゆめりあい」といった「期」の文化の影響力も強く、一人でグループ全体を体現する「申し子」メンとしての磁力が笠原や橋迫のそれと比べれば弱いことは否めない。
だが程度の差はあれ、彼女たちが純正「申し子」メンたちと似たような環境(グループとの共振+周囲からの注目)で育ったことは確かであり、そこに生まれた磁場は新規ヲタを惹きつける強力なフックとして機能している。佐々木莉佳子や松永里愛の持つ新規ヲタへの訴求力はこのnoteでもしばしば論じてきたので、今回は最近のつばきファクトリーの新機軸を牽引する秋山眞緒に落ちた方のnote記事を紹介しておきたい。この方が記事の中で二推しとして挙げているのが橋迫鈴であることからも、「申し子」力というものが一定の汎用性を持つものであることがよくわかるだろう。
さて本章の最後に、一人変則的な擬似「申し子」メンに触れておきたい。かつてこぶしファクトリーの「末っ子」だった井上玲音である。井上はこぶしファクトリーというグループにおいて上に挙げた「申し子」メンとしての条件を全て満たしたメンバーであったが、彼女が「申し子」メンとしての磁力を発揮する前にグループそのものが消滅し、一人ハロプロに留まることになった。その意味で井上はアンジュルムの一時代を象徴する「申し子」メンとして開花した後にハロプロを去った笠原桃奈と好対照をなす存在である。だがその代わりに井上は新たに加入したJuice=Juiceでは「辛夷の花」の色をメンバーカラーに纏い、近年のJuice=Juiceを見舞った激動の中でも不屈の「こぶし魂」を発揮し続けている。そして2022年の夏に発表されたJuice=Juiceのアルバム曲「STAGE〜アガってみな〜」は井上のボイスパーカッションが大胆に取り入れられた、こぶし楽曲とまごうばかりのロックチューンであった。今はなきグループの遺伝子を引き続き継承し続けているという意味では、彼女もまた一段次元の異なる「申し子」メンの変種として、銘記されるべき存在なのではないだろうか。
現在最も注目すべき「申し子」メン
前述の通り、厳密に言えば「申し子」メンとは特殊アンジュルム的な現象であり、そのアンジュルムでさえ近年は純正の「申し子」メンの育成は行っていない。もっとも事務所側も「申し子」メンを「育成」しようとしているわけではなく、時に事務所の予期せぬスピードで進行する世代交代に対する非常措置の副産物として純正「申し子」メンが生まれるのではないだろうか。すなわちアンジュルムはそうした非常措置を必要とすることの多かったグループだったということであり、逆に計画通り世代交代が進む限りは、今後も純正の「申し子」メンはなかなか生まれにくいのではないか、と自分には思える。
その中で一人、限りなく純正「申し子」メンに近い状況に置かれている擬似「申し子」メンが存在する。Juice=Juiceの、そして現時点でハロプロの最年少メンバーでもある遠藤彩加里だ。
遠藤彩加里は2008年4月26日生まれの現在14歳、2022年夏、石山咲良との抱き合わせでJuice=Juiceに加入したメンバーである。だが石山は遠藤の五学年年長であり、さらに一期上の有澤一華とは同い年の研修生同期でタメ語で会話し、同じく一期上の入江里咲とはONLY ONEオーディションの同期という間柄だ。つまり石山は年齢的にも人間関係的にも(ついでに言えば名前的にも)「3.5flower」と括られてもよい存在であり、逆に言えばJuice=Juiceの新人は「1.5人」とカウントすべき状況が生じている。
そう考えた時、遠藤彩加里は純正「申し子」メンとしての条件をほぼ完璧に満たす存在である。リーダーの植村あかりは遠藤と同名という奇縁もあいまって、「リーダー預かり案件」として遠藤の魅力の発信に並々ならぬ力を注いでいる(下掲Instagramリンクを参照)。またグループが世代交代の曲がり角にあり、周囲の注目が彼女の成長に注がれている点、遠藤が松本わかなのような例外的な早熟性を持たない年相応な「中学生」である点も、笠原桃奈と橋迫鈴の加入直後を彷彿とさせるものがある。そして限りなく純正「申し子」メンに近い状況に置かれた遠藤の磁力に、早くも目利きのヲタクが足を取られはじめている(下掲ツイート参照)。
ただし、遠藤彩加里が笠原桃奈や橋迫鈴と全く同じような形で「申し子」メンとしての道を辿っていくのかは自分にはわからない。このnoteでも繰り返し論じている通り、アンジュルムとJuice=Juiceではグループとしての文脈が異なる部分があるからだ。そこで自分にまず出来ることといえば、アンジュルムの事例から抽出された抽象モデルをJuice=Juiceという文脈と突き合わせ、彼我の違いを一つ一つ観測していくことしかない。たとえば笠原や橋迫の加入直後と比べると、今の遠藤は既に萎縮せずのびのびと過ごしているように見受けられる。やはり曲がりなりにも「同期」がいるという安心感ゆえか、あるいはJuice=Juiceにおいて求められる自己表出の出力レベルがアンジュルムのそれよりは穏やかであることが幸いしているのか、念頭に置くべき材料はいくつかあるだろう。
一方で橋迫鈴における9期加入のような将来におけるドラマティックな「ブレークスルー」も、今のJuice=Juiceのグループ事情から考えると考えにくい。そのことを念頭におけば、遠藤彩加里の自己表出は橋迫のケースよりはグラジュアルな、笠原桃奈型に近い形で進むのではないかと思う。だとすれば、笠原における上國料萌衣や船木結に当たる期や年齢の近い存在が、遠藤の「申し子」性開花の触媒として機能するのではないか。そしてそのうちの一人は言うまでもなく同期の石山咲良であり、もう一人は彼女と年齢の近い江端妃咲なのではないかという気がする。そんな期待を抱かせる材料として、昨日江端が更新したブログの一端を紹介することで本章を締めることにしたい。
おわりに
ということで、ここまで自分が考える「申し子」メンについてつらつらと論じてきた。そして改めて強調しておきたいのは、「申し子」メンとは一つの現象なのだ、ということである。「これこれこういう性質のこういう魅力をもったメンバーが申し子になる」という話ではない。特定の環境条件に置かれたメンバーの個性とグループの伝統、そしてヲタクを含めた周囲の注目に加えその他の偶発的要因が輻輳し、「申し子」メンという強力な磁場を形成するのである。そして「申し子」メンという現象は、同一グループにおいて同時に起きることもあれば(2021年の笠原桃奈と橋迫鈴)、強度の差はあれ同一グループにおいて何度も繰り返されるものなのだ(松永里愛、江端妃咲、遠藤彩加里)。
自分が何故この点を強調するのかといえば、やはり冒頭の「モーニング娘。って譜久村聖の物語なんだよ」という話にかかわる問題がある。自分の知る限り譜久村がモーニング娘。に加入した経緯は、自分が今回論じた「申し子」メンのケースとは異なるように思える。だが、そこには同じように輻輳的な状況があることだけは容易に想像がつく。メンバーの個性やグループの伝統といった変数、さらに(アンジュルムやJuice=Juiceのケースとは比較にならないほどの複雑性を帯びた)周囲の思惑が絡まることで、一筋縄ではいかない「磁場」が形成されているはずなのだ。
ただ、自分はモーニング娘。についてはそれを論じるのに十分な素養を持ち合わせていない。ゆえに語りえぬものに対しては沈黙を守り、語り得るものに対してはいかに語るかという作法の一端をお見せするにとどめることにした。最近「語りえぬものについては騒ぎ立てるべきである」という気の利いた捩りを目にしたが、それがポジティヴなものであれば大いにそうすべきであろう。だが、最近は何かとネガティブに騒ぎ立てる輩も少なくはない。そしてそのようなケースの大半は、「語り得ぬ」ものを「語り得る」と思い込んでしまう愚昧さに基づくことが多い。そうした場合にはヴィトゲンシュタインの捩りなどはやめ、ただ口を噤んだ方がよいのである。
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