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阿修羅の偶像(アイドル)第1章第1節

登場人物

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第1章:四門出遊

五部浄像(興福寺)

第1節

「五部浄(ごぶじょう)殿、乾闥婆(けんだっぱ)殿、緊那羅(きんなら)殿、迦楼羅(かるら)殿。そして夜叉殿、沙迦羅(さから)殿、摩睺羅伽(まごらが)殿、あなたがたは天龍の和平のため、並々ならぬ力を注いで下さりました。その上に、私の勝手な願いを聞いていただけるなど、本当に感謝の言葉もございません」
 舎脂(しゃし)は一同に深々と頭を下げる。
「いやいや、我らは、奥方様の遠謀深慮に従うのみです」
 五部浄はそう言って恭しく首を垂れた。
「そしてこの五部浄、我らが師から衆生済度(さいど)を託された者。元より天道でぬくぬくと過ごすつもりはございません。ここにいる同志たちも皆、同じ心意気にございます」
「……まことに忝うございます……」
 その声音に涙が滲み、舎脂は再び首を垂れる。五部浄は改めて慇懃に一礼すると、
「師の入滅から数えて、人道の時で500年が過ぎました」
 口を開き、粛々と語り始めた。
「正法(しょうぼう)の時代は終わり、これより1000年にわたる像法(ぞうぼう)の時代が始まろうとしています。五道に加え、此度の戦で新たに作られた修羅道を合わせて六つ、六道(りくどう)を行き来する道は今後閉ざされ、天龍の介入する余地は限られてしまうでしょう。ただでさえ天龍の寿命は人道の歳で万年、我ら当分くたばる見込みがないところで、像法、さらにその後末法の時代に入ってしまえば、我らは末法の終わりまで天道に閉じ込められてしまうことになりかねません」
「そう、そして私が心配しているのは、そうなった時に果たして末法に『終わり』など訪れるのか、ということなのです」
 舎脂はそう言って天を仰ぐと、
「鍵を握るのは人道の者たちです。我らが師は、次なる仏陀もまた人道より現れるだろうと説きました。しかし、末法の世に人道の者たちが仏道を忘れてしまえば、その可能性も限りなく低くなってしまうでしょう。その時に、一体何が起きるのか……」
「まず、人道の人口が減り始めるでしょう」
 五部浄がすかさず答える。
「末法の世が進み、仏法から外れた生き方をする者が増えるほど、悪道に転生する者が増え、人道に転生する者は減ります。悪道に生きる衆生には十分な仏縁は与えられませぬゆえ、済度への道はますます遠ざかるでしょうな。さすれば末法の終わりなど、人道の者どもが噂するように56億年先までも見込みがなくなるかもしれません。しかし、」
 五部浄はゆっくりと七天龍を見回して、
「六道を繋ぐ道が閉ざされる前に、我ら七天龍が人道へと堕天するならば、その流れに少しは抗うことができるやもしれません。我らの行いがもし仏法に適うものであるのなら、人道に散った我ら七天龍、必ずや大いなる縁起に導かれ、然るべき時に然るべき場所へと集うはずです。そしてその時その場所には必ずや、」
 五部浄の目が光った。
「奥方様の和子様が」
「……私は阿修羅族の済度に失敗しました」
 そう言って舎脂は、無念そうに目を閉じた。
「しかし、それもまた大いなる縁起の一環、ということなのかもしれません。その連なりが次に続くとすれば、我が子が年頃の者となり、己が道を選ぶ時でありましょう。末法の六道に風穴を開けられる者がいるとすれば、三千世界に我が子しかおりません」
「御意、そしてミスラとアスラは表裏一体」と五部浄。「新たな仏陀もまた、その縁起の連なりの末に現れるであろう、と我らは睨んでおります」
「なればこそ、私は願うのです」
 舎脂は七天龍を見回して言った。
「我が子こそが、阿修羅族を、そしてあまねく六道の者たちを、新たな仏陀のもとに誘う者となるのではないか、いや、そうでなければならないのだ、と。だから皆様の……とりわけ、龍衆の方々には、」
 舎脂は夜叉のいかつい手をぎゅっと握ると、
「特にご苦労をおかけすることになりましょう。同じ龍衆としてのよしみに免じて、どうか私の我儘な母心をどうか許していただきたい。その時が来たならば。どうかあの子の手となり目となって、あの子を仏法へと導いていただきたいのです」
 舎脂は目を潤ませながら、言った。
「ヤクシャ殿」

 障子から差し込んでくる光は、既に十分に明るい。
 どうもこの部屋では、まともな時間に目覚めたためしがない。そして今回はもはや目覚めたという実感すらなく、昨夜の記憶は全て夢と現が渾然となったまま、保(たもつ)は布団にうつ伏せになっていた。
「ヤクシャ殿」
 先程夢の中で聞いた声がまた聞こえてきたような気がした。寝る前の体の重さは既に消えていたが、両足だけは鉛でも乗せられているように重く、立ち上がることができない。
「ヤクシャ殿」
 また声が聞こえる。煩わしさを覚えた保は「んぐ」と間抜けな声を漏らした。すると保の両腕がスーッと持ち上げられ、
「いっ!」
 後ろから保の体が海老反りになった。何者かが保の両膝の裏に足を掛け、保の両腕を背後から引っ張っているのだ。
「……ロメロォ?」
 保は反射的にそう叫び、両手両足を勢いよく動かして何者かの手足を振り払った。
「何なんだよ?」
 振り返ると、そこには若い外国人が目を丸くしている。
 精悍な切れ長の目、きかん気の強そうな作りの大きな口、日に焼けた肌。長い黒髪を頭の上で大きく束ね、肩の出た青く鮮やかな民族衣装を纏うその姿は、少年のようにも少女のようにも見えた。するとその外国人は、感心しきりと言った顔で口を開く。
「……お前、強いな」
「誰ですか? あんた!」
「我が名はवरुणだ」
「え?」
「वरुणだと言っておる」
「……あの」
 保にはこの外国人の名乗りが全く聞き取れない。
「やはりこちらの者どもには我が名は難しいか」
 外国人はやれやれと頭を振ると、
「もうよい。お前の最初の役目はとりあえず終わった。もう少し話のわかる者に通してくれ」
「……あの、もしかして——」
 保はふと思い立った。相手が外国人らしいので思いつかなかったが、この寺ならばそういうこともありうるだろう。
「今日から来るっていう、手伝いの方ですか?」
「手伝い? 手を貸してほしいのはवरुण の方だ」
 外国人はきょとんとした顔で、まるで噛み合わないことを言っている。が、保の推測は当たらずとも遠からじのようだ。これはとっとと先生に面通しした方がよいだろう。
「わかりました。先生に紹介しましょう」
 保はそう言って立ち上がり、障子を開けて廊下に出た。
「そうだ。それがお前の仕事だ」
 外国人は傲然と言い放ち、保についてくる。随分と態度のデカいやつだな、と保は鼻白む思いもしたが、ひょっとしたら日本語の口のきき方がよくわかっていないのかもしれないとも思い、苛立ちをぐっと飲み込む。
「何しろ向こうで言われたんだ。こっちに着いたら、」
 外国人は無遠慮な口調で続ける。
「まず鬼のような姿形の者を見つけて、『ヤクシャ』と呼べ、とな」
 やはり相当に無礼な奴だ、と保は改めて確信した。だいたいその名前こそ聞き取れないものの、この外国人の日本語は完璧なのだ。とにかく早く先生に渡りをつけてしまった方がいい。廊下に出たはいいものの、最初は先生の居場所が分からなかったのだが、何やら炊事場の方で物音が聞こえる。先生か沙羅が、昨夜の食器の後片付けでもしているのだろう。
 炊事場の戸を開けると、果たして二人が仲良く並んで皿洗いをしていた。自分が寝坊した気まずさを飲み込んで、保は声をかける。
「あ……おはようございます」
「おう、起きたか」と先生が振り返った。
「あの、こちらにお客様が——」
「……ん?」
 先生が怪訝そうな声音を漏らしながら、こちらを凝視している。
「あの……ですから、こちらの——」
「無駄だ」
 外国人はずかずかと沙羅の方に歩み寄ると、無遠慮に顔を覗き込んで言った。
「この娘は……昨夜巫女を務めた娘だろう。だとすれば……お前がサカラだな」
 その瞬間、沙羅がはっと目を見開いた。それを見て外国人はニンマリと笑い、沙羅の頬を軽くポンっと叩くと、「次にあんただ」と言って先生の顔を覗き込んだ。
「あんたはだいぶ偉そうだな」
 それはあんたの態度だろ、と内心一人ごちる保をよそに、外国人はしばし熟考していたが、
「……五部浄か?」
 すると先生の目に一瞬驚きの色が浮かび、やがて会心の笑みへと変わった。
「ようこそ」
 先生の差し出した手を外国人が握り返し、
「意外と早く親玉と会えてホッとしたぞ」
 そう言って満足そうに笑った。どうやら先生に引き合わせたのは正解だったようだ。
「……バルナ?」
 その時、沙羅の口から震える声が漏れた。
「あなたバルナでしょ? そうだよ! バルナだよ!」
 沙羅はそう叫んで炊事場を飛び出し、廊下をパタパタと少し駆けた後にすぐ戻ってきた。
「これ!」
 沙羅は、例の白い弦楽器を外国人の目の前に突き出した。
「阿修羅琴(あしゅらきん)だよね? これはあなたの世界から渡ってきたものなんでしょ? あなたは阿修羅琴に『触れもせずに』極上の音楽を奏でることができるんでしょ? でも『触れもせずに』ってどういうことかずっとわからなくて……ねえ、やってみせてほしいの!」
 いつもは淡々と喋る沙羅が、珍しく目の色を変えてまくし立てている。外国人は目を丸くして彼女を凝視していたが、やがてカッカッカと大笑いを始めた。
「おいおい勘弁してくれ。お前の言うことはことごとく馬鹿げてる。こんなものが簡単にこちらに渡ってくるようなら苦労はないし、だいたい『阿修羅琴』なんて代物の話など聞いたこともない。『触れもせずに』どう奏でるか? それはこっちが聞きたいくらいだ。それに、」
 外国人は、急にひどく冷たい目をして、
「歌舞音曲など女のやることだ。वरुणの仕事ではない」
「……え?」
「だがな」と、外国人はまた表情を緩める。
「『バルナ』というのは我が名のことか? こちらの世界ではそう発音するのか。よい、そう名乗ることにしよう、我が名はバルナだ」
 バルナと名乗った外国人は、そう言ってまたカッカッカと大笑すると、
「さて、『仕事』に入る前に、少し腹ごしらえがしたい。こちらの世界にきた楽しみの一つだ」
 そう言ってペロリと舌なめずりをする。
「そういえば供物は」と、先生が口を開いた。
「お気に召しましたかな?」
「仔牛の臓物は、さすがに面食らったぞ」
 バルナが苦笑を浮かべた。
「いかに我ら六道一の剛勇の民とは言え、さすがに生肉を好んで食らうような蛮族ではない。そういえば、あの菓子は美味そうだったな」
「あの菓子は」と、先生は一瞥した。
「『ワッフル』と申します。ヤクシャが選んだものにて」
「まことか?」
 バルナはそう言って愉快そうに笑う。
「何とも無粋そうな面で粋なことをする奴だな。さすがは多聞の者だ。おい、ヤクシャ、そのワッフルとやらはまだあるのか?」
「……は、はい」
 保は一昨日の段ボールのところまで行って、ワッフルの入っている缶を取り出してきた。
「これです」
「おお、では頂戴するぞ」
 言うが早いか、バルナはワッフルを取り出し、むしゃむしゃと食べ始めた。随分と態度のでかい奴だが、大きな目を糸のように細めながらワッフルを頬張る姿は、年相応の少年(ここまでの話し振りからすればおそらく少年だろう)らしい可憐さがある。その様子を先生はしばし慈しみ深く眺めた後、やがて頃合いを見計らって、
「ワッフルで空腹を満たされるのも結構ですが、」
 と、口を挟んできた。
「ちょうど昼餉の時間にございます。折悪しく私と沙羅は少し早く軽い昼餉を頂いたところですが、これなるヤクシャめは腹をすかせております。近所にバルナ様が必ずやお気に召すであろう飯屋がございますので、ヤクシャと二人でいらっしゃってはいかがでしょうか?」
「ほう」
 バルナの目に興が宿った。
「バルナは選り好みをせず何でも食らうぞ。仔牛の臓物でも出されない限りはな」
「はっはっは、そのような無粋な真似は、二度といたしません」
 先生は自分の頭をポンと叩くと、流しの上にあった大皿をひょいっと持ち上げると、保の方に差し出す。
「そんなわけで、ついでにこれを返してきてくれ」
 その先生の依頼で話が見えた。どうやら昨夜のご馳走は、保たちがこれから行く店で作られたもののようだ。だとすれば、その店はインド料理か何かのエスニック料理の店なのだろう。バルナの口に合いそうだというのも、納得できる話だ。
「行き方は簡単だ。ここに来た道を戻り、線路を越えて東青海駅の南口に出たら、目の前に都道が走ってる。少し右に行けば『ガンダルヴァ』という店がある」
「『ガンダルヴァ』だと?」と、バルナの目が光った。
「はい」と、先生が心得た顔で微笑む。
「既に天衆の者どもも雁首を揃えております」
 それを聞いてバルナはにんまりと笑うと、
「さすがは五部浄、手回しがよいな」
「いえ、それがしは何もしておりません」
 先生は小さく肩をすくめて言った。
「全ては、大いなる縁起のなすところにございます」

 一昨日来た道を下り、小川の合流点に差し掛かる辺りまで来た。バルナは見るもの全てが新鮮な様子で、きょろきょろと周りを見回して落ち着きがない。そして古い街道に出るところで、ちょうど目の前を自家用車が通り過ぎたものだから、
「うおっ! この世界は鉄の塊が走るのか!」
 バルナは目を丸くして驚いた。
「……バルナさんの国には無いんですか? 自動車」
「まだ無いな。バルナが幼い頃までは、人道の文明からも色々と学んでいたそうなのだが……ほら、なんと言ったかな、あの……」
 バルナは腕を組んでしばらく考え込んでいたが、
「マグ……そう、マガダ王国だ! それから……マケドニア帝国! その辺りの国々からは、色々と学んでいるぞ」
「は?」
 どちらも遠い昔に世界史で学んだような国の名前である。正直、保にはバルナが何を言っているのかさっぱりわからない。未だにそんな紀元前のような文明程度の国などあるのだろうか。
「あの……失礼ですが、バルナさんはどちらのご出身でしたっけ?」
「シュラドーに決まっておろう」
 バルナは呆れた表情で口を尖らせ、保の知らない国名を口にする。保はふうと小さく溜息をついた。
 先生が何故か彼に礼を尽くしている手前、あまりきつく当たることはできないのだが、保は正直この不思議な少年にふり回されるのに疲れ始めている。出会い頭にロメロスペシャルを掛けてくるようなやんちゃ者で、おまけに言っていることの大半が全くわからないのである。
 そして態度が無駄にデカい。まるで生まれながらの王族のようだ。整った精悍な顔立ちとすらりと長い手足も相まって、この少年がこの格好で悠々と歩く様は、古代王国の王子と言われてもおかしくはない。
 さて、街道に入ると既に人里である。道なりに歩いているうちに、向こうから人が歩いてきた。保は慌ててマスクを取り出して装着する。それを見たバルナが怪訝な顔をして、
「どうした?」
「いや……人が来たので」
「お前の顔を怖がられないようにか?」
 バルナはそう言って呵々大笑する。どうやら全く事情がわかっていないようである。
 そういえば、と保は改めてバルナの方を見た。彼は現れた時からずっと、ノーマスクなのだ。
「バルナさんの国では、コロナはいかがですか?」
「コロナ? 何だそれは?」
 保はさすがに驚いた。どうやら彼の故郷はだいぶ周囲から隔絶された場所のようではあるが、いくら何でもこのご時世にコロナを知らないというのは信じられない。
「……バルナさんの国には感染者いないんですか?」
「……何だ、流行り病の話か」
 バルナはようやく合点がいったという顔になって、
「我々は、そんなものには縁がない」
「そうですか……一応人目につくところではマスクしといた方がいいとは思いますよ」
 と、保は老婆心を見せた。せっかくお国がコロナに縁がないのだから、旅先で感染したら元も子もないだろう。それにコロナ禍で何かと人心がささくれ立ってきている。マスクをしていない人に言いがかりをつける「マスク警察」の話も聞くし、外国人に対する排外主義の気運も高まってきている。郷に入れば郷に従っておくに越したことはあるまい。
 するとバルナは目を細め、「なるほど」と得心した表情を浮かべると、
「どうやらお前は、まだ何もわかっていないようだな」
 そう言ってクスリと笑うと、いたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。
「大丈夫だ。バルナは『人目につかない』」

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