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「無知をdisる語り」への「嫌子」として

昨日の午後、久しぶりに東東京に出かけている間に、コーネリアス絡みで一騒動があったようである。

この烏賀陽氏という人はこれまでもネット上で何度か見かけることがあって、何故ここまで無駄に攻撃的なのだろう、ということは思っていた。ちなみに自分はお世辞にも平和主義者とは言えない人間で、特に批評性の牙を抜くようなことなかれ主義には猛烈な反発心を覚えてしまうのだが、それにしてもこの烏賀陽氏という人の攻撃性はあまりにも無駄で、かつ無理のあるもののように感じてしまう。

ただ一方で自分は、既に世論からの総攻撃を喰らっている対象に対して尻馬に乗るような行為というのもあまり好きではない。特にこの烏賀陽氏という人のように一見進歩的で文化的な人の場合はなおさらのことである。というのは、この人の問題点は進歩的、文化的であることを己の自己愛の隠れ蓑として用いていることなのだが、こういう人が一度馬脚を表してしまうと、進歩的、文化的であろうとする態度自体が叩かれる流れに繋がりやすいからだ。なので、だからこそこの件に関しては少し解像度を上げて、「何がまずいのか?」という話を絞り込んでいくことで、話をより分節化していきたいと思う。

まず最初に言いたいのは、この烏賀陽という人に見られる「他人の無知をdisるスタイルの語り」に、ある種の懐かしさを覚える、ということである。思えば昭和末期から平成期前半、つまりインターネットの普及の直前からSNS時代の直前くらいまで、自分はこういうスタイルのコラムをよく目にした。

ところで「他人の無知をdisる」というのは、「他人の知見を増やす」という目的には全く役に立たない。というのは、「知見を増やす」というのは新しい行動なのだから、その行動を強化させようと思ったらその人にとって何か良いこと(好子)が生じるような条件付けをする必要があるからだ。ところが「無知をdisる」というのはその人にとって悪いこと(嫌子)である。嫌子は誰かの行動を弱化させるために用いる時に効果的なものである(たとえば大声を上げないように注意する、など)。逆に誰かの行動を強化するために嫌子を用いるのは、行動分析学的には全く効果的ではないのである。

では、何故昭和末期から平成期前半にかけて、烏賀陽氏のような語りが通用したのか、ということを考えてみると、あれは読者に対する「好子」として機能したからではないか、と思うのである。あの頃、それが冊子体であれネット記事であれ、烏賀陽氏的な人が書くものを目にする人は、烏賀陽氏的な人と直接対峙していたわけではなかった。なので、烏賀陽氏的な人が「こんなことを知らない奴はバカだ」というようなことを書いていたとしても、それが自分のことだとはあまり感じなかったのではないか。特に、わざわざそういう冊子を購入したりネット記事を読むような人は、烏賀陽氏的な知識を既に持っていた可能性は高かっただろうし、仮に持っていなかったとしても、自分を「烏賀陽氏側」に置くことの方が多かったのではないか。つまり烏賀陽氏的な人が他人の無知をdisればdisるほど、読者には「彼らよりも優位に立てる」という「好子」が与えられていた、ということになる。全くもって健全とは言いがたい「好子」だが、それでも烏賀陽氏的な人は少なくとも行動分析学的には理にかなったことをしていた、と言えるのである。

ところがこれがSNS時代になると、烏賀陽氏的な人は公衆と直接対峙することになってしまった。このアーキテクチャ下では、自分を「烏賀陽氏側」に置くことのできない公衆が一気に増加する(これは「無知な公衆が増えた」という意味ではなく、SNSのアーキテクチャがそういう風になっている、ということである)。そうなると、烏賀陽氏的な人の無知disを単に「嫌子」としてとらえる人がぞろぞろと出てきてしまうのである。ちなみに「嫌子」は他人の行動を強化させるのではなく弱化させるのに効果的であるから、烏賀陽氏的な物言いに触れた人たちは知的なものからますます遠ざかっていくだけなのだ

またSNS時代になると、自分を「烏賀陽氏側」に置くことのできる人たちに与えられる「好子」にも無理が生じてくる。烏賀陽氏的な優越感を感じ続けるには、世の中のありとあらゆる事象に通暁していなければならない。ところがSNSのアーキテクチャ上では、世の中には自分の知らないようなことを知っている人々が腐るほどいることが明らかになってしまった。この状況下で「全知全能」の優越感を維持し続けるためには、「世の中には自分の知らないようなことを知っている人々が腐るほどいる」ということに対する鉄壁の無知を維持し続けなければならないという、何だか妙な話になってしまう。そんな倒錯的な営みを通してしか維持できない「好子」ならば、最初から願い下げにしてしまった方がいいだろう。

ちなみに自分は反知性主義に居直って喚き声をあげているような連中というのも当然好きではない。ただ、自分がそういったものをdisる時は単にその喚き声を小さくさせるための「嫌子」を置いているだけであり、彼ら彼女らを「知性主義」の方に転向させようと思ったら全く別の道具立てが必要であることは自覚しているつもりだし、「傲慢」は罪であっても「無知」は全くもって罪ではない、と思っている。なので、闇雲に反知性主義の群れを大きくするだけの烏賀陽氏的な「嫌子」語りというのは本当に迷惑この上ない話である。

ただ、その代わりにどのような「好子」を置けばいいのか、ということに関しては実に難しい。というのは、知識とか知見といったものを得ることによる「好子」というのは結構内発的なもので、世界の見え方がクリアになって気持ちいいとか、単に新しいことを知ること自体が楽しい、といったもので、その「好子」が発生するには少し時間がかかるものであるし、特に昨今のように世知辛い世情とは実に相性が悪いものだからである。なので、烏賀陽氏的な人にそこまでハードルの高い「好子」語りを要求することはできないと思っている。ただ、状況を少しでも改善するために、烏賀陽氏的な「嫌子」語りを「弱化」させるための単なる「嫌子」として、今回の記事を置くことにした。これがどこまで効果があるのかはあまり期待はしていないが、少なくとも行動分析学的には正しいことをしているはずである。

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