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9/2 続・「声出し」の法と道徳

さて、今日はこの話の続き。それにしても上國料萌衣さんの汎用性が高すぎる。このnoteのヘッダーに使うの何度目だろう…

ちなみに自分は「新規」と「古参」だと、どちらかと言えば「古参」に同情的な姿勢でこの記事を書いたところがある。繰り返すが自分は隣の人が声を出そうが出すまいが、割とどうでもよい。ただ推しグループの現場について考えると「古参の声が高らかに響きつつ、新規もどんどん入ってくる」というのが活気があって気持ちが良いし、メンバーも一番喜ぶ状況なのでは、ということを思うのである。

ただ、何しろ「少数決の原則」というのがある。その場合、古参は新規に比べて分が悪い。というのは、新規はいざとなればハロプロをすぐに離れて他に流れうるが、他に行き場のない古参はあれこれと言いつつ残らざるを得ないことが多いからだ。そして事務所の方もこの非対称性に付け込んでじわじわと新規の声を取り入れる路線を続けている。それが今くらいならばまだ良いのだが、「少数決の原則」に従って「最も不寛容な新規」に水準を合わせたルール設定になってしまう危険性も十分にありうると自分は憂慮している。

「最も不寛容な新規」には「いざとなればハロプロを離脱する」というカードがある。ところが「最も不寛容な古参」にはそのカードがない。口ではそういうことを匂わすかもしれないが、その精神構造からして絶対に離れられるわけがないのだ。だとすれば「最も不寛容な」戦略をとるのは筋悪ではないか。むしろある程度歩み寄ることで、相手の不寛容ぶりを浮き彫りにするというのが政治的駆け引きとしては定石ではないかと思うのである。

と、そんなことを考えて書いたのが先日の「法と道徳」なのだが、あれはあくまで試案であり、他に良案があれば別にそれでもよい。たとえばサッカー観戦のように、「フーリガン席」と「ファミ席」を分けてしまうというのは一つの手であろう。つまり相互交渉能力や相互寛容性に欠けるヲタクが一定数存在することは予め織り込んだ上で、ゾーニング統治によって乗り切ってしまおうという手法だ。ただし、ヲタクの属性に応じて席の不平等が生じないよう上手く調節する必要はあるだろう。あるいは、先日述べた「法と道徳」が適用されるゾーンを良席(ないし割安席)に設定することで、ヲタクに対して相互交渉能力や寛容性を身につけるインセンティブを与えるというのもナッジングとしては有効かもしれない。

ついでなのでサッカー観戦のアナロジーをもう少し続けるなら、サポーターにフーリガン少なめのチームと多めのチームがあるように、同じハロプログループでもアンジュルムとOCHA NORMAではヲタクの文化というものが異なる。それを一緒くたにして、やれアンジュルムの現場は「盛り上がっていない」だのと言っても始まらない。「法と道徳」メソッドであれゾーニング統治であれ、グループの文化に合わせて柔軟に適用していくのが理想的ではあるだろう。

ちなみにゾーニング統治は「組織的応援」派「自然発生的応援」派の共存という意味でも有効であろう。「凱旋企画」の時などでも、当該メンのメンカラで一面に染めるゾーンと、各々が好きな色を振るゾーンを予め分けてしまうのである。ちなみに自分はメンバー指定のコールなどが新規に優しいなと思う一方で、「ここだよ朋子!(現・ここだよりさち!」コール誕生秘話などを耳にするとあまりの味わい深さに胸が熱くなってくる。ゆえに「どっちもいっちゃう」を可能にするような仕組みがあれば、それに越したことはないと思うのである。

ところで先日「自然発生的応援」派の心理について少し考えてみたのだが、そこにはある種志の高さと志の低さが混淆しているのではないか、と思った。つまり運営側の予定調和に甘んじない即興性、創発性をヲタクが自律的に発揮することにプライドを持っていることは素晴らしいことなのだが、それを新規に対するマウンティングの材料としてつまらない虚栄心を満たしているような人も中には見受けられる。「古参はリスペクトすべきだが、自分をリスペクトしろと新規に言ってくるような古参はリスペクトに値しない」というのはこの件に限らない自分の基本的な構えなのだが、それを聞いた(リスペクトすべき)古参の友人は、「古参も新規をリスペクトすべき」と言った。だが、それを新規自身が古参に言うとすれば、その新規は同じようにリスペクトには値しないのである。まあ、あれこれと色んなことを考えてきたが、根本の「法と道徳」はその二つで十分なのかもしれない。


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