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今泉力哉監督の発言の何がマズかったかを言語学的に検証してみる

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そんなわけで、アンジュルムにかこつけてアンジュルムと全然関係ないことをよく書くことが多くなったこのnoteですが、今回もアンジュルムと直接的には関係ありません。ただ、とは言え、「あの頃。」の監督である今泉力哉氏がジェンダーイシューで炎上し、アカウントを消してしまった、という話は、間接的に考えると決してアンジュルムと関係のない話ではないと思います。

詳しくは今泉監督自身のツイート画像をご覧ください。あまり他人のツイートのスクショを引用しながら物事を論じるのは趣味の良いものではないとは思うのですが、今回は今泉監督のアカウントが消されてしまっていること、ご本人が「スクショが出回っているのでそれをご覧ください」ということを言われていたので、例外的にこの形をとらせていただきます。

さて、近年この手の騒動が持ち上がるたびに、私はある違和感を覚えることが多い。まず、この手の話で、「本人の発言意図」をあれこれ論じることに意味がないということはよくわかります。「決して悪気がなかった」としても、それが結果的に不用意な形で人を傷つけてしまわないように、しっかり言葉を選ぶ必要があるというのは、確かにその通りだと思います。しかし、その後に何故、「こういうことがないように、自分の心の中に潜む差別意識をしっかり見つめなおそう」みたいな精神論になるのかがよくわからないのです。つまり「本人の内心や発言意図については論じない」という原則をとるなら、問題解決においてもその原則を守った方がより建設的であり、その原則を守らないのはダブルスタンダードなのではないか、ということです。

自分は割と行動主義的な考え方をする人間だからなのかもしれませんが、人間というものは意識が変容してから言動が変わるのではなく、言動が変わった結果として意識が変わるものだと思っております。だとすれば、「自分の言動が思わぬ形で人を傷つけてしまわないよう『意識』を改める」前に、「誰かを不用意に傷つけない言動」とはいかなるものかを検証し、それを身に付けることができれば、結果的に「意識」の方も変わるのではないか、ということを思うのです。

そんなわけで、今回の今泉監督の発言に関し、監督の「発言意図」は一旦括弧に入れ、この発言が純粋にテキストとしてどの点がマズかったのか、を具体的に検証してみたいな、ということを思いました。とにかくこういう場合、問題点はより具体的に、可能な限り細かく分節化された形で抽出していった方がよい。そうしないと、「特に問題がない部分」に関しても一緒くたに無駄な「反省」をしてしまうようなことにもなりかねません。そして本来「反省」すべき問題点の克服はなされないままに、物事の良い部分ばかりが失われてしまうようなことにも繋がってしまうと思うのです。

さて、今回の彼の発言は、大きく分けて以下の二点の問題点が指摘されているようです(これらに加え、「俳優目当ての同性愛男性だっているではないか?」という指摘もあるようですが、それはあまり重要なものではないのでひとまず起きます)。

①「俳優目当ての女性客」の軽視

②「女性客といえば俳優目当てのミーハーである」という含意

で、①について。まずあらかじめ言っておきたいのは、仮に今泉監督の意図を「この映画は俳優目当ての女性客よりも、同性愛男性に見てほしい」ということだったとして、その望みを言明すること自体には何ら倫理的な問題はない、ということです。で、もし倫理的な問題が出てくるとすれば、

①それを観客に強制するようなケース

②主訴を正当化するために女性客を理不尽に貶めるようなケース

の二つです。そして今回の今泉監督の発言が、この二点に当てはまるものか否かを検証していく必要はありますが、彼の主訴(に見えるもの)そのものに倫理的な問題はない。ただし、その発言をすることが「巧い」やり方かどうか、という問題は別にあります。たとえば、むしろ「当事者ではない人が俳優目当てで映画を見に来たら、色々考えさせられた」みたいなケースを積み重ねていった方が、世の中の意識全体が変わっていくことに繋がるのではないか、とか、動機はさておき様々な観客を集めることで映画が話題になった方が、映画に疎い同性愛男性に届くチャンスにも繋がるのではないか、といったことはどうしても思ってしまいます。

そして、何であれこの発言が反感を買うことは事実なのだから、反感を買うことを最初から覚悟するか、反感を買いたくないのであればそのために言葉を尽くす必要はあります。また、そもそも「同性愛男性は女性ファンが多い劇場には行きにくいと感じる」のかどうかも、私には全く断言できません。私個人は会場に男性が多かろうが女性が多かろうが特に気にしない性質ですが、私自身異性愛者なので当事者性をもって断じることはできません。何となく思うのは、「女性ファンが多い劇場には行きにくいと感じる」というのは、私と同じ異性愛者である今泉監督自身の感覚に過ぎないのではないか、ということであり、そうだとすれば、彼の主訴(に見えるもの)は論理の組み立て自体が間違っている可能性もあるということになります。とにかく戦略論のレベルでも戦術論のレベルでも、この話は善悪の問題としではなく巧拙の問題として論じるべきもので、その点に関して今回の今泉監督の主訴(に見えるもの)は「巧く」はないようには思えますが、倫理的に非難されるような筋合いのものではないと思うのです。

さて、そうした点を踏まえた上で、②「女性客といえば俳優目当てのミーハーである」という含意 の話に移ります。こちらに関しては、確かに今泉監督のテキストが倫理的な問題含みの機能を果たしてしまう箇所があります。それが「俳優ファンである女性」の「である」です。

この「である」、文法的には「助動詞『だ』の連用形+補助動詞『ある』」ということになりますが、「上位語と下位語の接続」という役割を果たす言葉で、 「である」の前件と後件は同一物、同一人物を表します。そして後件の名詞である「女性」が一般集合名詞なのか個別具体的な女性を指すのかが明示されていないので、「女性という集合全体」が「俳優ファン」と同一である、という意味になってしまう可能性を排除できないテキストなのです。もし仮にここで助詞「」を用いて「俳優ファンの女性」という表現であれば、「上位語と下位語の接続」に加え、「その個体の性質」を表す助詞としての機能が出てくるので、この助詞を用いること自体が「ここで言う『女性』とは個別具体的な存在だよ」という意味論的説明に繋がります。しかし「である」にはその機能がないため、「女性は一律俳優目当てで映画を観にくる」という含意が存在する可能性を排除するためには、「ここで言う『女性』とは個別具体的な存在だよ」という注釈を別個に行う必要が出てきてしまうのです。

そして、もしもその注釈行為が行われない場合、「女性」という言葉が一般集合名詞なのか個別具体的な存在なのかは、この発話を聞いた側が文脈から推測していくしかありません。そして今回はよりによって「俳優ファンである女性」というテキストが置かれているコンテクストが非常にまずい。繰り返しますが、「この作品の観客としては、女性よりも同性愛男性を重視したい」という主訴自体には倫理的な問題はありません。問題なのは、その主訴の中で「女性」という言葉は一般集合名詞として扱われてしまっていることです。そして何よりもこの言明は、「重視されない側」である女性が反感を抱きやすい(今泉監督の言明に倫理的な問題がないのと同時に、女性側が反感を抱くことも正当なことではあります)。そうなると、「俳優ファンである女性」というテキストの「女性」を一般集合名詞として解釈してしまう女性が多くなるのは当然でしょう。

その意味では、いっそ「俳優ファンである」というテキストを省略して、単純に「当事者よりも女性が観客に多い傾向がある」とした方が、倫理的に問題もなく反感も買われなかったのではないか、という気はします。ところが「俳優ファンである」というテキストが入ることで、今泉監督が「この作品の観客としては、女性よりも同性愛男性を重視したい」という己の主訴を正当化する理由を付与しているように見えてしまう。そして前述の通り、文法的にはそう見えてしまうだけの十分な理由がありますから、そう見てしまう側を「考えすぎだ」と責めるのは筋違いです。そして、今泉監督の主訴(に見えるもの)に腹を立てることも当然ではあるものの、今泉監督の主訴(に見えるもの)自体を「非倫理的」であると責め立てることも不当です。この場合非倫理的なのは、主訴(に見えるもの)ではなく、それを正当化する理由(に見えるもの)の方です。何故なら、その理由(に見えるもの)は、「女性」という本人には変えられない生物学的な性と、「俳優ファン」という一律の属性を結びつけてしまっている(ように見える)ものだからです。そして、それ自体が確かに性差別(に見えるもの)であるのと同時に、彼の主訴(に見えるもの)と結びつくことで、前述の二つのケース(①それを観客に強制するようなケース ②女性客を貶めるようなケース)に当てはまるような機能を果たしてしまっています。この点について、今泉監督の発言意図は問わず、単純にテキストだけを問題にして彼の責任を問うべきであるという、ということに関しては、自分には異論はありません。

ただし、今泉監督の発言意図を問わないのであれば、「彼の責任を問う」という話になった時、急に「意識を改めよ」みたいな精神論になることには違和感を感じる、ということを既に述べました。たとえば今回の件であれば、監督が意識的/無意識的な性差別感覚をもって彼の主訴を正当化しようというつもりはなく、単に「男性の同性愛を描いた映画の観客には俳優ファンの女性が多くなる」という事実を羅列した可能性、そして彼の不注意や文法的無知によって二つのテキストを「拙く」接合してしまった可能性もあります。そして「発言意図を問わない」という原則に従ってそのような好意的解釈を回避するならば、逆に「彼には性差別感覚がある」という解釈に一点張りするのもおかしいのではないか。そのことは論理的なダブルスタンダードに陥ってしまうのと同時に、効果的な問題解決を阻む要因にもなってしまうと思います。もし彼の不注意や文法的無知が原因だったとするならば、漠然と「彼の意識を改める」のではなく、「彼の意識」は引き続き括弧に入れたまま、彼の発言を言語学的に検証していった方が、彼が具体的に学ぶものは多くなる(そしてその結果として効果的な問題解決に繋がりやすくなる)のではないでしょうか。

また、「責任を問う」というのは誰かを糾弾することではない、ということも併せて強調しておかなければなりません。「責任(responsiblity)」とは読んで字のごとく「応答する(response)能力(ability)」です。つまり、「今回性差別と俳優ファン蔑視(に見える)テキストを拵えてしまったのは今泉監督なのだから、その問題を解決する能力を最も備えているのは今泉監督自身である」というのが「責任=応答する能力がある」ということなのです。だとすれば、漠然と「意識を改める」といった問題解決が難しそうな方向に監督を追い込むのは、彼が「責任=応答能力を果たす」ことを阻害してしまうのではないか。そして実際に、監督はアカウントを閉鎖するという形で、彼が「責任=応答する能力」を示すためのチャネルを一つ閉じてしまいます。そうなると、そのことに関しては「責任=応答する能力」を問われるのは誰かという話になります。まず最初に挙がってくるのは、問題解決が難しそうな方向に監督を追い込んでいった人々です。しかし「責任=応答する能力」を示すには、透徹した論理性が不可欠であり、今回監督を咎め立てている人々には、まさにその論理性が欠落しているのではないか、ということをここまで述べてきました。そしてその欠落がどこから来ているのかと言えば、これもまさに彼ら彼女らが主張する通り、彼ら彼女らが社会的弱者として常に不安に苛まれてきたことと無関係ではないでしょう。だとすれば、彼ら彼女らの「責任=応答する能力」を問うことにも限界がある。そして、そうした不安とは無関係な(それゆえ潜在的な形で彼ら彼女らに不安を与えてきた可能性のある)マジョリティに属する自分の「責任=応答する能力」が問われているのではないか。ということが、自分が今回ひどく理屈っぽい形式でこの文章を書いている動機なわけです。

その意味では、私が今回の騒動に気づくのが遅すぎたということもあり、今泉監督が既に己の「責任=応答する能力」を示すチャネルを一つ閉じてしまったことに関しては、非常に残念であると思っています。というのは、この文章は何よりも監督本人に読んでほしいものであり、彼が「責任=応答する能力」を効果的な形で示す上での一助になるなら、自分はとても嬉しく感じるからです。監督自身は私のような無味乾燥な理屈屋というよりはとてもエモーショナルな方のようですが(それが彼の短所であり長所でもあるのだと思います)、「責任=応答する能力」を果たそうという意識がとても強い方であることは彼の発言から見てとることができました。なので、Twitterのように彼に直接働きかけるチャネルがもし確保されていたのなら、彼はこのテキストを読んでくれたのではないか、という気がします。

ただ一方で、今泉監督はアカウントを閉鎖することで、己の「責任=応答する能力」を遂行的に示したのだ、という見方もまた可能ではあります。というのは、世の人々の基本的な安全感を下げ、論理性を欠落させていく上で、Twitterというアーキテクチャが果たしてきた負の効果はあまりにも大きいからです。たとえば私も今回の件に関して、ツイートという形で何かを発信することは絶対にやめておこう、ということを思いました。140字という限られた字数で何かを発信しようとした場合、「倫理的に問題があるもの」としてそのテキストが機能しないよう、文法に気を配りながら文章を練り上げるのには、今回の今泉監督でなくとも非常にハードルが高いものがあります。かといって、誤解されないための注釈に満ちた連続ツイートを行なったところで、そのうち一部だけを切り取られて拡散されるようなことも非常に多い。だとすれば、もうTwitterというアーキテクチャを公論空間の基盤にすること自体に無理があるのであって、それこそ「かみこぉぉぉぉぉ!」とか「9期しか勝たん!」みたいな人畜無害な呟き以外は、より手の込んだ長文へのアクセスポイントとしてのみ利用していった方がよいのではないか、ということは私もとみに感じているところであります。

そのことを指して、「Twitterで言いたいことも言えないこんな世の中なんてポイズン」と嘆く向きも多いかもしれませんが、私はこれを奇貨として文法に意識的な形でよりelaboratedな発信が増えるとすれば、それは悪いことではないと思います。たとえば今泉監督にしても、あそこで「である」ではなく「の」を使っていたとすれば、自分の発言意図を言語学的に傍証することができたはずです。より文法を意識した発信を行うのであれば、いちゃもんを付けられた時、文法に則る形で堂々と己の正当性を主張することができるわけです。また、私自身、欧州言語を学習する過程で言語文法に意識的にならざるを得なかったことで、自分の理屈っぽさに磨きがかかったと自覚していますが、文法に意識的な人は自ずと論理性が発達します。そして、論理性が発達した人は、間違いなく差別を嫌うようになります。何故なら差別というものは総じて非論理的なものであり、論理性の発達した人は、論理性の欠如に感情的な嫌悪感を抱くようになるからです。「全ての人に優しくあれ」といった漠然とした精神論を説くよりも、これは差別をなくしていく上で確実な方法だと自分は思っています。

また、それと絡んで強調しておきたいことは、「全ての人を傷つけないようにする」ということは、倫理とは全く無関係だということです。倫理とは「優しさ」よりはむしろ「論理」に近いところにあるものです。逆に言えば、倫理的に問題がなくとも人を傷つけてしまうようなことはある。今回の例で言えば、今泉監督の主訴(に見えるもの)がまさにそうでありましたし、たとえば映画好きな女性の抱く「女だからミーハーな俳優好きだと思うな!」という言明は倫理的に問題ないものではありますが、それは同時に「ミーハーな俳優好きの女性」を傷つけるものではあると思います。そして、だからその言明をやめろというつもりはありません。倫理的に問題ない内容を、倫理的に問題ない形式で発信する限り、その言明を行うか否かは、全て発言者の自由意志に委ねられています。つまり、あらゆる発信者が留意すべきは、「自分の発信が誰かを傷つけないよう意識的になる」ことではなく、「自分の発信が誰を傷つけるかに意識的になる」ことなのではないか、ということになります。

その上で改めて思うのは、全ての発信者が等しくSNSというショートテキストメディアに集ってしまったこの十数年というものは、やはり歴史的に見ても異常な時代だったのではないか、ということです。やはりそろそろ皆、己が得意とするメディアに戻っていった方がいいのかもしれません。たとえば今泉監督であれば、我々には決して真似できない映画というメディアの使い手であります。その意味では、彼が己の得意とする畑に立ち返り、映画というメディアを用いて「責任=応答する能力」を改めて示してくれることを、楽しみに待ちたいと思っております。


追記

監督はその後、ご自身の判断で「Twitterのアカウントを残すこと」を選ばれました。詳しくは監督の下記ツイートから始まる連続ツイートに書かれていますが、「責任=応答する能力」を示すという意味では、これ以上ないくらい素晴らしい判断だと思います。





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