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阿修羅の偶像(アイドル)第1章第3節

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次の瞬間、保(たもつ)の目に映ったのは車道の景色である。
「……いっ?」
 思わず声が出た。目の前の景色は、車のバックウインドウ越しに見えるようだ。どういうわけか自分は今、車の後部座席にいて、小さい子供がよくそうするように車の後ろの景色を見ているようなのだ。
 とりあえず周りの様子を確認すべく保は首を回そうとするが……動かない。体を前に向けようとしても……動かない!
「来たか」
 その時、近くでバルナの声がした。
「バルナ?」
 が、バルナの姿を探そうにも、首も体も動かないのである。
「バルナ? どこにいるんだ?」
「ここだ」
 いきなり目の前に二つの手のひらが現れた。
「少し説明が難しい。じきにわかって来るだろうから、しばらく待て」
 バルナの声がまた響くと、
「とりあえず、今周りはこんな風になっている」
 視界がぐるりと45度切り替わった。隣にはあの高坂という社長が座っている。さらに視界が変わり、助手席には彼の部下の中年男が座っているようだ。
「そんなわけで、今は少し黙って耳を澄ませ」
 バルナがくくっと忍び笑いを漏らすと、
「こいつら、なかなか面白い話をしてるぞ」
「何言ってんだよ! それどころじゃ——」
 急に声が出なくなった。口の周りの筋肉が完全に硬直して動かなくなってしまったのだ。
「黙らないなら、バルナが黙らせるしかない」とバルナが続ける。
「いいから聞け」
「まあ、あれはちょっと当たりが強すぎたぞ」
 高坂の声である。
「あんまり人前でイジメすぎると悪評も立つしな」
「ええ、そうですね……申し訳ございません」
 助手席から、中年男の声が答える。
「ははっ、まあ、表ではな。裏ではもっとビシビシやってくれても構わないよ。俺がちょっと優しくすればいいんだ。鞭はお前らの役目、飴は俺の役目。DV男が女を依存させる要領さ」
「なるほど……まあ、逃げられないよう、ほどほどにしときますよ」
「いやいや、多少逃げられても構わないんだって」
 高坂の声が得意げに上ずっている。
「奴ら、逃げたら切羽詰まって犯罪に手を染めるだろ? そうすれば外国人に不安を抱く連中も増える。うちらの支持はますます高まるってわけだ。それにな、奴らにこの国を妙に気に入られたら困るんだ。そうしたら奴ら、日本に住み着いて選挙権を得るだろ? それはニッポン人としちゃ困るんだよ」
「ああ、そうでしたそうでした」
 中年男性が一本取られた、という趣で媚びた声を出す。
「社長、いつも仰ってますよね。天下百年の計、って」
「そうよ。衰えたりとはいえ我がニッポン、世界中から労働力は集まってくるんだよ。賃金は外人に合わせて、労働者を安くこき使えばいい。日本人も含めてな。負け組の日本人は子孫を残さず早死にさせれば、選挙権のない外人をこき使っても、うちらを落選させることはできない。そうなればうちらの天下だよ。逆にいえばそれまでの辛抱さ。負け組の日本人が死に絶えるまでの間、悪いのは全部外人のせいだってことにして、上手く騙くらかしてうちらを支持してもらわないといけないってことよ」
 高坂はそこまで勢いよく熱弁を振るうと、ふう、と溜息をついて、
「いっそ、コロナで奴ら、さっさと死に絶えねえかなあ」
 保は高坂の話を聞きながら、まずこんなことを口にする奴が現実に存在することを、にわかに信じ難く思った。
 続いて、憤りのあまり顔が熱くなっていくのを感じる。今、体も動かず、口も利けないことを、保はありがたく思った。さもなければ、雄叫びをあげながらこの下衆野郎に殴りかかっているところだ。
「いい怒りの波動だぞ。ヤクシャ」
 バルナが嬉しそうに呟く。
「それにしても絵に描いたような仏敵だ。いきなりこんな大物がかかるとは、まさに世も末だな」
 バルナはカカッと笑って舌を鳴らす。保はそれを聞いて、改めて世情を呪わしく思った。こんな下衆が、たまたま恵まれた境遇に見栄え良く生まれ、狡猾にお行儀よく振舞っているだけで、人々の支持を得て市議会議員に収まっているのだ。これでは神も仏もあったものではなかろう。
「だが、六道輪廻の輪は末法の世でも回り続ける」
 バルナはそう言って指を鳴らすと、
「それを、ほんの少し早めるだけの話だ」
 その時、車が止まった。すでにどっぷりと日が暮れ、外は暗い。
 車を先に降りた中年男が後部ドアを開けた。高坂が車を降りるのに合わせ、保の体もするりと勝手に動く。気がつくと、市街地から少し離れた山道の中に立っていた。目の前には立派な邸宅の広大な敷地が広がっている。
 その時、保の視野が180度回転した。目の前を横切る山道が徐々に遠ざかり、さっきまで乗っていた車が出ていくのが見える。そして、足元からは庭の砂利を踏み分ける「ザッザッ」という音が聞こえてくる。
 ……これってまさか——と、保は背筋が寒くなる思いを感じた。そう、先生は言っていた。にわかに信じられないかもしれないが、目に見えるもの、手に触れるものだけだ全てだ、と——
「ようやくわかってきたか」
 バルナの声が聞こえた。
「では、『虫掃除』を始めるとしよう。お前の助言通りに、」
 バルナはカカっと笑いを漏らすと、
「改良『ロメロ』でいくぞ」
 そして、バルナは大音声で叫んだ。
「高坂波瑠夫!」
「ん?」と高坂が答える声がした。
「何だ……実習生か? それにしちゃ若すぎるな?」
「oṃ devayakṣa bandha bandha ha ha ha ha svāhā oṃ maheśvarāya svāhā」
 バルナが呪文のようなものを唱え始めた。その声は、暗闇に包まれた山肌に木霊し、無數の僧が読経する密教の大寺院のように鳴り響いていく。と、同時に、保は自分の両手の先に、今まで感じなかった外気の冷たさを急に感じ始めた。
「な……なに……?」
 高坂が驚嘆の声を漏らすのが聞こえた。次の瞬間、保の視界がまたぐるっと180度反転し、恐怖のあまり蒼白になっている高坂が大映しになる。そして保と目が合った時、高坂が絶叫した。
「化け物ぉぉぉぉぉー!」
 高坂の絶叫に合わせ、保の視界が上下に揺れる。
「うわぁぁぁっ!」
 高坂が背を向けて遁走を始めた。すると、また風景がぐるりと回転し、夕闇の中に門と山道が遠ざかっていく。そして「ひぃっ」という高坂の悲鳴が聞こえると、また視界が止まった。続いて、自分の両手が、自分の意志に反して何かをがっちりと掴むのを感じたのである。
 両手がぐっと前に引っ張られる。「ぐわぁっ!」という高坂の絶叫とともに、両腕に振動が走った。
「カカカ」
 バルナは不気味な笑い声を漏らす。すると高坂がまた「ひぃっ」と叫んで、
「ちょ、ちょっと、どうなってんだよ! 手が……手が四本? 手がぁ!」
「カカカカカ」
 次の瞬間、保の視界に地面が近づき、顔を打ち付ける寸前で止まった。同時に、ずっしりとした重みが両腕を貫いていく。
「ひえっ、助けて! 助けてくれぇっ!」                      
 高坂が喚き続ける。腕が完全に伸びきると同時に、自分が掴んでいるものが高坂の両足であることを保は認識した。保の両腕は高坂の悪足掻きを完全に制し、保自身の預かり知らぬ凄まじい力で彼の両足をしごき始めている。保は恐怖のあまり叫んだ。
「おい、バルナ! バルナ!」
「oṃ devayakṣa bandha bandha ha ha ha ha svāhā oṃ maheśvarāya svāhā」
 だが、バルナはそれに答えず、再び呪文を唱える。すると頭上でやかましく響いていた高坂の喚き声が、シューシューという音に合わせて絶望的な断末魔の叫びへと変わり始めた。同時に、保は両手で掴んでいるものの触覚が細く、脆いものになっていくのを感じる。そして両腕に伝わってくる重みも次第に軽くなっていくのだ。
 頭上ではバキバキと骨と肉が裂けるような音が響き始める。それが保の手に生々しい振動を与え、その都度高坂の叫びは悲痛なものへと高まっていった。やがて高坂が静かになると、グシャアッと何かが決定的に弾ける音がして、保の両手がふっと軽くなり、続いてボトッと何かが地面に落ちた。
 その時、保の視界から地面が離れ、人間の目の高さへと上がっていく。その刹那、保は地面に子犬ほどの大きさの白くてヌメヌメした生き物がのたうちまわっているのを見た。次の瞬間、手がその生き物に伸びる。
「ひっ!」
 保はたまらず声をあげた。右手のひらにひいやりとした粘液の感触が広がり、不気味な生き物のビクビクという痙攣が伝わってくる。
 続いて保の視界が反転し、動き始める。高坂がいた辺り一面に広がっている塵が、見る見るうちに薄闇に紛れ、やがて霧消していく様が保の目に映り、そして遠ざかっていった。
「お待ちしておりましたぞ。バルナ様」
 山門のところで、先生の待ちかねたような声が聞こえた。しかし、バルナは先生を無視して通り過ぎていく。
「今のバルナ……話しかけても無駄ですよ」
 保は嘆息しながら呟いた。
「なるほど、これが『戦闘相』か。まさに阿修羅だ」
 先生はバルナの全身をしげしげと眺めながら、バルナの後を追って歩き始める。
「……先生、」
 保はバルナの後ろを歩く先生の目を正面から見つめると、
「言われた通り、目に見えたもの、手に触れたものから考えてみたんですけど……」
 少し躊躇った後、口を開いた。
「自分の顔、今、バルナの後頭部についてませんか?」
「ああ」
「で、自分の両手、今バルナの体に生えてませんか?」
「ああ」
「あと、自分の右手、変な虫みたいなもの持ってませんか?」
「ああ」
「……自分……大丈夫なんですか?」
「心配するな」
 先生が微笑む。
「お前さんの本体は今畳の上でぐっすり寝込んでいる。境内で倒れてたのを沙羅と二人で運ぶのは苦労したぞ。今、沙羅は心配してお前さんに付きっきりだ。だが、心配は要らない。バルナが『仕事』を終えて正気に戻れば、お前さんも自分の体に戻れるだろう」
「『仕事』って、何ですか?」
「その虫を社に捧げれば、それで終わりだ」
「……そうですか……」
 あまりにあまりな出来事が打ち続き、保はこれ以上質問をする気力を喪失している。
「……わかりました」
 池の橋のたもとまで来ると先生は立ち止まり、「あと少しだ。頑張れ」と言って軽く手を振った。とりあえず今は先生の言葉を信じ、今の悪夢が一刻も早く終わることを信じるしかあるまい。
「ゴルディアスの結び目は、やがてマケドニアのアレクサンドロス三世が一刀両断することで解きほぐされた」
 遠ざかる保の顔を見つめながら、五部浄は独りごちる。
「そしてオリエントを制圧したアレクサンドロスはゴルディアスの予言通り、四海を統べる覇王への道をのぼり詰めていくかに見えた。だが、その彼もインダス川を越えることはできなかった。誰も解けない結び目を躊躇なく両断する覇道の剣では、仏道の国天竺(てんじく)を制することはできなかったのだ」
 そしてバルナの背中が社に入るのを見届けた後、五部浄は天を仰いで呟いた。
「時は今 天が下しる 五月かな……ついに始まりましたぞ、奥方様」

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