見出し画像

阿修羅の偶像(アイドル)第3章第4節

登場人物一覧

ここまでのお話はこちら

 そして、7月11日、大庚申祭の日がやってきた。
 保(たもつ)以外の皆が最後のリハーサルで忙しい中、保は寺に残って現場を任されることになった。だが、今回は竹林さんがスタッフを手配してくれたということもあり、会場設営に当たって保の出る幕はなかった。何もしないのも手持ち無沙汰で居心地は悪かったが、保はイベントの出演者なのだから、と竹林さんに宥められているうちに、本堂の板が取り外され、機材が運び込まれ、会場が設営されていったのである。
 その日は朝から暑く、やがて関東地方に梅雨明けが発表された、日曜日ということもあって、昼のニュースでは日本各地が観光客で賑わう様が映し出された。
 しかし、コロナ禍は一向に明ける気配がなかった。
 東京オリンピックに向け6月20日で緊急事態宣言が解除されると、感染者は再び増加の一途を辿り、前日の7月10日には東京都の感染者が950人を数えることになった。そして政府はバタバタと7月12日からの緊急事態宣言再発令を発表した。その意味で、今日7月11日は人々が得た束の間の自由の、最後の一日でもあったのだ。
 だが青海市は相変わらず、感染者ゼロを維持し続けていた。
 先生曰く、青海池に出現した異界から流出する精気には、人道の病原菌を無化する力があるのだということだった。元々青海池からは少量の精気が出ていたのだが、5月12日以降、その精気がいよいよ全開になったということらしい。ただ先生も、そんな話を世間の人々が信じるとは思っていないため、厳重な感染対策をとろうとする竹林さんを、あえて止めるような真似はしなかった。
 日が傾き、次第に開場の時間が迫ってきた。参道には既に気の早いファンが列をなしている。男女比率は半々くらいで、中年男性と若い女性が多いのが特徴的だ。
 やがて開場の時間になり、ファンたちは整理番号順に本堂前の有料スペースへと誘導されていく。夕方になってさすがに少し涼しくなってきたが、ファンの熱気に加え、参道に設置された「ガンダルヴァ」の出店で売られているカレーの香りが漂い、境内は熱帯の街のような野生的な空気に包まれつつあった。
 そんな中、保は本堂ステージ横に設置された関係者スペースのパイプ椅子に座り、思いにふけっている。周囲が忙しく動き回るのを横目に己の手持ち無沙汰を実感するほどに、保の焦りは募っていった。沙羅は何か吹っ切れたように己の「音楽」に賭けようとしている。しかし、保は自分がバルナのために何ができるのか、未だに分からなかったのである。
「今日は、よろしく盛り上げてくださいよ」
 竹林さんが声を弾ませている。プロレスの余興試合でレフェリーを務めることを自ら志願した彼は、しっかりレフェリー風の服を着込んでいた。多忙に走り回りながらも、嬉しくてたまらない様子である。いわく、アイドルとプロレスは、夢を売るエンタメとして似ているところがあるそうだ。
「お疲れー」
 やがて、保に手を振る沙羅を先頭に、A&D8メンバーと水戸さんが関係者スペースに入ってきた。沙羅に「バルナは?」と聞かれた保は、黙って本堂の裏、社の方を指差す。
「開始ギリギリまで、あの中で集中力を高めたいそうだ」
「ストイックだなー」
 沙羅は呆れ顔で社を見つめる。その横では、竹林さんが広げているノートパソコンの画面を、水戸さんが興味深げに覗き込んでいる。
「なるほど、これが『ツイキャス』ですか」
 そう水戸さんが言うと、竹林さんは少し複雑な顔になって、
「君はあんまり見ないほうがいいぞ。精神衛生に悪い」
「何でですか?」
「見てるのは君のファンだけじゃないんだ。ひどい誹謗中傷も流れてくる」
「だからそんなことじゃダメなんですよ。今まで自分は『アイドルだから』ってことで甘やかされてきたんだから。ファンの方以外の意見もちゃんと目にしないと! 出来試合ばっかりやってちゃ駄目なんです! Shangri=laでロックフェスに出た時も言ったじゃないですか! ファンの方たちだけに盛り上がっていただいても意味がないんです! Shangri=laを知らない人たちに届かなければ意味がないって。そういう人たちの反応を肌身に知ることができたからこそ、私たちは成長できたんですよ」
「ストイックだなー」
 その様子を見て、沙羅がまたボソッと呟く。
 その時、会場がざわめきが沸き起こった。最前列にサングラスをかけたスタイリッシュな女の子が入ってきて、周囲のファンたちに向かってたおやかに会釈をしている。
「かよち!」
「かよち!」
 ナラキンさんと翼が同時に悲鳴をあげた。その様子を見たファルークさんが小さく笑って言う。
「あれはShangri=laの二期メンの一人、南田迦葉。レイヤに続いてグループを卒業した後、ファッションデザイナーとして近々ブランドを立ち上げる予定の才女よ」
「ブランド?」
「そう。彼女はアイドル活動の傍ら、デザイナー専門学校に通っていたのよ。レイヤが卒業した後、彼女の後を追って多くのメンバーが続々と卒業し、ファンは騒然となった。でも、卒業したメンバーたちは、デザイナー、モデル、女優と、それぞれの道で着実に力を発揮している。そして、そんなエネルギッシュなグループに憧れて、個性的な新メンバーがどんどん入ってくるから、私たちファンはもう卒業加入には慣れちゃったよ。Shangri=laは、メンバーたちが卒業後も自立して生きられるような文化を、レイヤが築き上げたグループだからね。いいねえ。前世の私も、」
 ファルークさんはふうっと溜息をついた。
「Shangri=laみたいなアイドル人生を送りたかったもんだよ」
「あ、あれ、あの人……」
 保は仰天した。最前列で赤いペンライトを手に、思いつめたような目をしながら開演を待っている女性は、有名女優の鹿子(かのこ)結衣ではないか。
「ああ、鹿子さんは随分前からよく現場で見かけるよ。レイヤの強ヲタだからね。それから……そう、あの人」
 ファルークさんは、やはり最前列にいる小柄な男性を指差す。
「あの人は有名なミュージシャンの浅瀬祐介さんね。最近Shangri=laのヲタクになったって聞いたけど、沼にハマるの早いなー」
「なんか……すごい人ばっかりですね……」
「ものを作る、表現する人にファンが多いのよ。アイドルは『生きる勇気』をくれるってよく言うけど、Shangri=laはそれだけじゃない。『何かを生み出す勇気』、『何かを表現する勇気』をくれるからね。私たちだってShangri=laのおかげで——お、噂をすれば」
 そう言ってファルークさんは客席に向かって手を振った。すると、最前列に入って来たばかりの小柄な女性が手を振り返し、こちらに近づいてくる。
「見城さん!」
「おお」
 保の声を聞いて、先生とナラキンさんがこちらに寄って来た。見城さんは二人にも「久しぶりー」と言いながら手を振り、「このたびはお招きいただきまして」と先生に会釈する。
「こっちで見ればいいのに」とファルークさんが言うと、
「いやいや、ヲタクは分をわきまえて客席に戻るよ。じゃ、また後で!」
 見城さんは身を低くして客席に戻っていく。するとファルークさんがまた口を開いて、
「咲良は沙羅ちゃんが来る前、私たちのバンドのギターボーカルだったんだよ」
「え? そうなんですか?」
「元々私たちは、青海のレイヤヲタの間で組んだバンドだもの。Shangri=laに勇気付けられて、私たちも何かやってみよう、と思ったのよ。でも咲良はあの才能でしょ。あっという間にソロデビュー、街を出て行った。それでただ一人ヲタクじゃなかったのが和尚なのに、その彼が教えてる大学にレイヤがいたなんて、やっぱり大いなる縁起のなすところよね」
 保は不思議なものだと思った。失礼かもしれないが、ナラキンさんのようなうだつの上がらない中年男性や、翼のように気弱な女の子がアイドルに入れ込むというのは何となくわかる。だが、見城咲良や鹿子結衣のような才能に満ち溢れた成功者は、傍目にはアイドルに依存する必要などないように見えるのだ。でも、ひょっとしたら彼女たちはアイドルを心の拠り所にすることによって、厳しい世界で戦うことができるのかもしれない、とも思うのである。
 ——しかし……
 保は深くなる夕闇の中で、先生の横顔を見ながら考える。
 保が先生にバルナの「宣戦布告」を告げた時、先生は「承知した」と言っただけで、それ以上のことを語らなかった。
 先生は高坂や台場の命を質草にしてでも、まずはギリギリまで天道の「企て」通りにことを回すのだと言った。その上で「企て」通りにいかないことを望んでいる、とも言った。そして先生は、バルナのために今夜三匹目の「虫」を準備すると言った上で、天帝が天道にいないという可能性を、わざわざバルナに告げた。保には先生の考えが完全にはわからない。だが、ここに来て天道の意図に反する何かを仕掛けようとしているのは確かなようだ。
 そして先生は、見城さんをこの場に招いた。彼女の訪問の後、彼女のことを話してみても、先生はしらばっくれた顔で首を傾げるばかりだったのに、昔の仲間だったなんて初耳である……水戸さんには最初からバルナが見えていたという話だって、先生は「さもありなん」と意味深に笑うばかりで——
 ——あっ……
 その時、保は久々に、彼方から小さく響く鬼の哭き声を聞いた。そう、今日は庚申の夜だ。このまま日が変わる瞬間まで、やつらは哭き続けるのである。
 保は顔を歪める。この二ヶ月ですっかり怪異に慣れた保にとって、それはかつてほど恐ろしいものではなくなっていた。だが、やはり今のような切羽詰まった精神状態で耳にすると、じわじわと身に堪えるものが——
「鬼が哭き始めたか?」
 保の様子を見て、先生が口を開いた。
「ならば鬼の王の出番だ。お前さんにしかできないやり方で、奴らを鎮めてやってくれ。お前さんはヒールどころか、見事な『王道』を歩んでいる。だが、」
 先生はそう言って口許を緩めると、
「今回は『覇道』でいけ」
 その時、本堂の台上を照らしていた薄い明かりが一瞬暗転すると、煌々とした照明に切り替わる。
 そして悠然と立ち上がった先生は、ゆっくりと堂上に上がっていった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?