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9/1 TOKYO GIRLS DO SHIT A? -仮説提示のすすめ-

さて、ようやくNewJeansおじさんの話に戻れるぞ。

今日は既にネットミームと化してしまった「東京の女の子、どうした?」の話をしたい。実は自分、このフレーズを見た時にすごく懐かしい気分になってしまった。

まず「東京の女の子」というフレーズ。これ自体が岡崎京子の『東京ガールズブラボー』を彷彿とさせる。すなわち作品のテーマとなった80年代前半から作品が書かれた90年代までに有効だった概念なのだ。ところが90年代後半のギャル文化以降になると文化が属地性から切り離されていく(社会文化的な東京一極化はむしろ進むのだが)。つまり今時「東京の女の子」というアイデンティティ自認でやってる「東京の女の子」がどのくらいいるのかという話だ。自分は職業柄若い女性と接する機会は同年代より多いはずだが、自分の体感としてもそれはないな、と思うものである。

もう一つ「どうした?」という物言いについて。これは以前烏賀陽氏の騒動の際に書いた話と重なる。つまり「他人の無知をdisる語り」の有効性もまた、様々な理由で賞味期限を迎えてしまっているのだ。この話については下の記事を参照していただければ幸いである。

一方で、「どうした?」という物言いの形式自体には「イマドキ」を感じることがなくもなくもなくもない。たとえば件の烏賀陽氏などであれば、「最近の若い女性は感度が低い」くらいのことを言いかねない。この点に関しては自分は烏賀陽氏に共感する(本当に彼がそういう物言いをするかは知らんが)。相手を批判する時は堂々と責任を持ってダメ出しすべきであり、疑問形に逃げるのは姑息に感じる。そして疑問形を発したからには、曲がりなりにもそれを受けた仮説提示を自分の方から行うのが、論者としての務めではないかと自分は思うのである。

なので有言実行、どうして「どうした?」という物言いが好まれてしまうのかを仮説提示してみるが、これはそんなに難しくはない。要は「読者の共感を喚起する呼びかけ」である。「東京の女の子、どうした?」であれば、論者と視座を共有している(と、論者が思い込んでいる)人たちに、「そうだよねえ、そう言えば自分も思うんだけど…」と言って欲しかったのであろう。そうやって賛同者を募ることで、自分の「お気持ち」の正当性を高めていくという「感情の政治」は、今時のインフルエンサーの常套手段ではあるわけだ。

ところが、最近のそれなりに心得のある論者であれば、今回自分が指摘したようなこと、「東京の女の子」という概念規定のあり方や、他人の無知をdisる語りというのが、既に無効になってしまっていることを知っている(特に「東京の女の子、どうした?」という呼びかけに応えてくれるはずの層はかなり知的な層であり、「感情の政治」が効きにくい)。
そうすると、期待していた賛同は得られぬまま、当事者である「東京の女の子」からの反発ばかりが殺到することになってしまったのではないか。

この辺は「感情の政治」のおそろしいところで、SNS上ではある主張に反発を覚える人がいたとしても、それに対する賛成意見ばかりが集まっているところにはなかなか反発を投じがたい。逆に言えば誰かの反発を招く恐れのある意見について一定以上の賛同を集められなければ、反発者の袋叩きにあうことを覚悟しなければならないのだと思う。

ちなみに対反発者という意味では、仮説提示を欠いた「どうした?」という呼びかけは最悪手である。「そう言われても○○なんで仕方ないっす」「そのくらい少し想像力を巡らせばわかるっしょ」と言った汎用性の高い切り返しがすぐに飛んでくるからだ。ところが予め自分なりに仮説提示をきちんとしておくと、その手の紋切り型はほとんど飛んでこない。おそらく自分の仮説提示はそれなりに当を得ていて、仮に何らかの反発を抱いていたとしても紋切り型を繰り出す以上の言語的解像度を持つ人はあまり存在しないからであろう。そしてその上で自分の仮説に批判的な意見を投じてくる人というのは、理性的で傾聴すべき人であることが多いのである。

そんなわけで「東京の女の子、どうした?」という物言いが何故あれだけ叩かれるかを仮説提示していくと、単に「マンスプレイニングだから」にとどまらない複合的な要因が浮かびあがってくる。ちなみに自分は「他人の無知をdisる」のはよくないと思っているだけで(無論、浅薄な知識で有害な語りを撒き散らしているような場合には容赦なくdisってよいだろう。だが、それは無知そのものではなく、「語りの有害性」の方が問題なのだ)、こちらがおっさんで相手が若い女子だろうが、ダメなものはダメと遠慮なく言っていくことは重要だと思っている。ただ、そのためにいくつか押さえておくべきコツというのはあるのだ。あと、最低限の仮説提示ができるよう、汎用性の高い得意分野をいくつか拵えておくといいのかもしれない。

というか、自分のように心臓に毛が生えている人間は言われなくともそれをやり続けるわけだが、世の中にはもっと繊細な人たちというのもいて、特に理性的な人たちはそういう人たちが多いものだから、風当たりが強くなることで、仮説交換の闊達さが失われることに対する一抹の不安はある。なので、「何がよくて何が問題なのか?」という分節化の一例として(これもまた仮説でしかないのだが)、今回の記事が少しでも資することが出来れば幸甚である。

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