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和田彩花「sachi」感想殴り書き

※和田彩花「sachi」はこちら

・和田彩花の詞はめちゃめちゃ大きい話かめちゃめちゃ小さい話をテーマにすることが多い。つまり世界や自然、人間社会全体といった話か、個人の生活実感や身近な人との何気ないやりとりといった話で、今回は後者である。ただし、個人の実感のままに前者と向かい合い、後者を描くことで全体が照射される作りになっているので、両者はメビウスの輪のように繋がっており、どちらの入り口から入るか、という違いでしかない。彼女による最近のアクションは「『今夜はブギー・バック』を遠くロシア軍の軍靴が聞こえる欧州大陸から遠望する」というスケール特大のものであったが(下記記事参照)、今回は完全に逆方向から入ってきた。

・そうである以上、作品はとことんシンプルで「小さく」する必要があると思うので、全2分53秒しかない今回の作品の作り方は大成功だと思う。テーマ的には「ホットラテ」の系列にあるが、創り方としては「私的礼賛」に近いと思う。夾雑物がどんどん削ぎ落とされていく傾向にある。

・「愛すべきべきHuman Life」に通ずる、ということは既につぶやいた。特に「ぬくもりだけ忘れんな Noである時も」という堂島孝平によるキラーフレーズの実践が和田彩花によって行われたのだと感じた。彼女はこの曲の中でも、最近のこの曲のプロモーション過程でも(昨夜のスペース配信内での会話も含めて)、非常に多くの「No」を言い続けている。特に後者に関しては、最近特に目立つな、ということを感じていたのだが、この曲と併せて考えるべきなのだろうな、と感じた。

・昨夜の感想スペースでも論じられていた通り、優しげなメロディに乗せることで辛辣な歌詞を際立たせるアイロニーというのは枚挙にいとまがない。が、今回はそこの順接関係は逆なのではないか、と感じたのである。逆に「ぬくもり」を際立たせるために「No」を言い続けているのでは、ということである。いつだかの配信で「自分は親しい間柄になるほど遠慮なく言い合えるようになる」ということを言っていたが、それは別に彼女に限った話ではなく、人間というのはそういうものである。些細な「No」を言い合えるからこそ親しい間柄ということもあれば、たとえ親しかった人間に大きな「No」を言わなければならなくなったとしても(その結果その人と訣別せざるを得なかったとしても)、とりあえずその人の「sachi」を願うということ(その人の不幸は願わないということ)はあり得るのである。つまり今回の彼女は、彼女が大きな「No」を言わざるを得ない人たちにエールを送るために、「ぬくもり」の熱源を置いたのではないか、ということである。

・なので今回の曲で彼女から「sachi多かれ」と言われているのは、最近の彼女の言動に日夜ネット上でぐちぐちと呟いている類の人々ということになる。アイドルの悪口を言っていればアイドルからエールを送られるのだから、全く羨ましい限りである。私のようにぬくもりのかけらもない冷血漢から見れば、毎度のことながら彼女はとんでもないお人好しにしか見えない。が、こうしたことのできる彼女のことを自分は心から尊敬する。

・話は変わるが今回の共作者valkneeは、創作の方法論の上でも和田彩花と共通点を持っているように見える。彼女が2020年に発表した「Asiangal」は英日韓の言語が入り混じる曲だが、そのリリックの語感は今回の「sachi」にも継承されており、それは和田彩花「Une idole」の「n’iporte qui (気)づいてる」にも通ずるものがある。「Asiangal」はvalkneeの等身大の実感から「2020年の極東」を批評的に切り取った歌詞になっていて、これも「極大と極小」を行き来する和田彩花の歌詞ととても似ている。こうした批評的視座を持つ表現者にとって「言語」というものがどういうものになるかについては、もう少し熟考した上また改めて論じられればと考えている。


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