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【ノム門十聖】山一加列伝②:山岸理子大姉篇(序)

ということで、不定期で続く山一加列伝、第二弾は山岸理子大姉である。ここの企画の主旨については下記記事をご覧いただきたい。

なお、前回の一岡伶奈大姉に続き、山岸理子大姉についても「(序)」というのを付けさせていただく。何故かと言うと、自分がこの方々について一度に全てを語りきる自信がないからだ。かと言って連続ものとして記事を構成できるほど見識が定まっているわけでもないため、自分が何か語れることが浮かんできた時に断片的に筆を進める形をとりたいと思う。

さて、山岸理子大姉といえば「山一加」の中で、それどころかノム門十聖の中でもノム陀に最も近しい、「阿難陀ポジション」の聖人である。まさに「多聞の者」というか、涅槃入り後のノム陀の御言葉は全て理子大姉を通して衆生に伝えられ、我ら門徒が師の最後の法話を聞いたのも理子大姉のバーイベのことであった。そして師が理子大姉ただ一人を共だって行った長尺の法話「さしめし」は、数あるノム典の中でも金字塔として光り輝いている。

そんなわけで山岸理子大姉は師の末弟たる自分にも馴染みの深い方のはずなのだが、未だに彼女がどういう方なのかを確信を持って語ることができない。その理由はおそらくいくつかある。

①自分の個性を前面にガツガツ押し出す方ではない
かと言って「謙虚」というのとは少し違う気がしていて、元々バックダンサー志望だったというのが関係しているように思う。実際山岸理子大姉はダンスシーンになると急に「獣の目つき」になってバキバキに踊り出すのだが、おそらく彼女の自己表現欲求の大部分はダンスに向かっていて、たとえば小野田紗栞のように「言葉」とか「キャラ」とかで自己を主張する欲求をあまり持ち合わせていないのではないだろうか(その意味では竹内朱莉に極めて近い、アイドル的というよりは職人的なリーダーである)。ただし彼女が語る言葉を持っていないわけではなく、師の涅槃入り前夜に書かれた圧巻の長文ブログは、我ら門徒の心を打つものがあった。つまり、必要な時には必要な言葉を語るが、そうでない場合はあまり言葉を尽くさない人であるというのが自分の印象である。

②オフステージの「フック」がない
山岸理子大姉にはたとえば一岡伶奈大姉の「鉄道」のようなオフステージのクセの強いネタがなく、ヲタクが目にするのはつばきファクトリーとしての芸能活動とパフォーマンスに特化した姿だけである。伶奈大姉もガツガツ自己主張する方ではないが、周囲が「鉄道」をフックにして伶奈大姉を立たせることができる。ところが理子大姉のプロフィールを見ても「映画鑑賞、舞台鑑賞、カフェ巡り」といわゆる「若い女子」のそれであって、周囲にツッコミどころが残されていないのである。ただ、これは理子大姉に限らず、「さにこ」世代までのつばきメン全員に言えることであり、それはおそらく、

③つばきファクトリーが「個性」を売りにするグループとしてプロデュースされてこなかった
ことと関係しているのではないだろうか。思えばこぶしファクトリーの方は「パン」「ラーメン」「高速まばたき」など、クセの強いフックがプロフィールに設定されていた。一方のつばきファクトリーはこぶしファクトリーと対照的に典型的な「若い女子」としてのプロフィール設定がなされてきたように思える。ただしそれはつばきファクトリーがこぶしファクトリーに比べて没個性的であることを意味するわけではなく、逆に谷本安美や小野田紗栞のようにこぶし勢よりも「業の深さ」を感じさせる濃ゆい個性が開花する苗床にもなっていった。そしてその逆説的な「濃ゆさ」は、こぶしファクトリーが解散し、対照関係を強調する必要もなくなった今、リトキャメという文化を生み出す系譜になっていったのだろう。だが、理子大姉はその中でも「普通の若い女子」然とした構えを崩さぬまま、変わらず佇んでいるように見える。そのことに絡んだ話としては、

④リーダーとしては意外とそつがない(ただし童顔)
というものもある。徹底したマイペースぶりを発揮する一岡伶奈大姉や時に熱暴走を起こす広瀬彩海大姉に比べると、山岸理子大姉のリーダーとしての振る舞いにはツッコミどころが少ない。ただし童顔、というところがまたポイントで、たとえば理子大姉が小片リサのような「大人びてしっかりもの」の外見であれば、彼女もまたそういうキャラとしてカウントされていた可能性も高いのではないか。また、パフォーマーとしてはかなり野趣溢れたダンサーなのだが、たとえば秋山眞緒のように派手めでやんちゃなイメージでその出で立ちを作り上げているわけでもない。そのことには一方で理子大姉の童顔で小柄な外見があり、もう一方にはリーダーとして「つばきファクトリー」のパブリックイメージを担わなければならない、という要請があるのだと思う。岸本ゆめのや秋山眞緒には「外れ値」として許されることでも、「つばきファクトリー」の中心にいる理子大姉は、あくまで「地味め」であることが求められてきたのだろう。つまり実際には「バキバキのダンスメン」でありながら、そうしたキャラに当てはめづらい諸条件に捉えられてしまっているのだ。

以上のような理由から、

①「天然キャラ」としてはツッコミどころが少ない
②「しっかり者」キャラとしては外見が幼い
③「ダンスメン」にしては派手ではない

という、何ともとらえどころのないキャラに見えてしまうのが山岸理子大姉という方である。ところがこうした彼女の「とらえどころのなさ」が逆に強烈なアクセントとして機能したのが、つばきファクトリー史上最強のキラーチューンとして記憶に新しい「アドレナリン・ダメ」であった。

「アドレナリン・ダメ」のAメロの歌い出しは浅倉樹々と福田真琳という新旧エースがいきなり「若い女子」の激情をぶちまけるところから始まる。ところが続くパートで山岸理子大姉が「で、後から来るの疲労感」と、急に﨟たけた表情で気だるげに歌い上げる。己の激情を自嘲的に俯瞰しているかのような表情と声であり、これは精神年齢が周囲よりも高めの人にしか醸し出せない表現である。



年長メンに俯瞰的なパートを歌わせる手法は決して珍しくはない。たとえばJuice=Juiceの「イニミニマニモ」では段原瑠々と井上玲音が一貫して物語の狂言回しパートを担い続けている。ただしこの曲で「主人公」を演じる有澤一華、入江里咲と比べて外見的にも圧倒的に「大人」なるるれいに比べると、小柄で童顔の山岸理子大姉は一見他の年少メンの中に埋没しがちだ。その彼女が突然このような﨟たけた表情(それは実のところ彼女の年齢とキャリアに相応しいのだが)を見せることで、この曲の主人公がかなり複層的な内面を抱えた人物であることが視聴者にすぐに伝わるのである。

また他の識者の方は、間奏明けの落ちサビでの山岸理子大姉のパートにも注目する。間奏前の大サビではリトキャメを中心に自堕落な恋愛からの決別が高らかに宣言され、間奏では理子大姉が先頭に立ってバキバキに踊ることでその高揚感をマックスに体現する。ところが間奏が終わると先頭に立っていた理子大姉がふっと我に返ったような表情で「だからダメ」と弱々しく落ちサビを口ずさむ。ここで高揚がスローダウンすることでタメができ、ラスサビの盛り上がりが強調されることになるのだ。

こうした落ちサビの効果自体も、決して珍しいものではない。たとえばアンジュルムの「愛のため今日まで進化してきた人間 愛のためすべて退化してきた人間」では、ダンスメンの佐々木莉佳子が躍動感あふれるダンスを締めくくった後、「可憐な少女」として上國料萌衣が落ちサビを歌い始める。上述の山岸理子大姉は、いわばりかみこの役割を一人で兼ねているということになる。アンジュルムは人類全体を対象にした壮大なオードが似合うグループであり、りかみこの落差はいわば人類の多様性を意味するものである。だがつばきファクトリーはあくまで私小説を歌い上げるものであり、理子大姉が持ち合わせる「りか/みこ」の二面性は、私小説的主題である個人の多面性を意味するものなのだと言えるのかもしれない。


ことほどさように山岸理子大姉のとらえどころのなさは、つばきファクトリーと彼女自身の成熟とともに、私小説的主題を効果的に表現するためのアクセントとして見事に機能し始めている。そして「天然キャラ」「しっかり者」「ダンスメン」といった記号性にとらわれない理子大姉の実相こそが、ノム道の悟りたる「不立文字」の境地を体現しているのではないだろうか。

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