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Juice=Juiceの「涙のヒロイン降板劇」:20230228武道館公演雑感

はじめに

さる2月28日、Juice=Juiceの日本武道館振替公演を見てきたが、非常に満足度が高かった。今まで観たハロプロのライブの中でも一、二を争うほどの満足感である。

もちろん推しグループということはあり、一度は中止になった公演のリベンジであったというエモ要素もある。自分が何らかの増幅感情に流されていないと言えば嘘になるだろうが、それにしても満足度の質が非常に総合的なものに感じた。なので、自分の満足感を少しでも分節化しておこうと思い、この記事を書くことにした。

演出と楽曲

まず、テクニカルな話から始めたい。今回のステージ演出を担当したのはJUNGOという人で、アイマスやウマ娘など、かなり「今時のコンテンツ」に携わってきた人だけあって、そのキャリアに相応しい演出のスピード感を感じた。今回は「STAGE~アガッてみな~」で始まるだろうなという予測がある程度ついていたというところがあって、その上でどう期待を裏切るかがポイントだったように思える中で、あの始まり方は見事であった。また、個人的には「Vivid Midnight」のレイヴ楽曲としてのポテンシャルを十二分に引き出した演出が素晴らしかったと思う。声出しはともかく、踊り狂いたいものだと心底感じた。

楽曲という点で言うとJuice=Juiceは元々良曲が多い上に、一旦アルバム制作という話になると制作陣が多様な作家を用いて大量の楽曲を創るので、結果的に楽曲のヴァリエーションが非常に豊富なことになっている。特にデビュー直後、つんく♂メインプロデュースの「少女期」から2020年前後の「ひとそれ」からシティポップ攻勢までの「大人期」の間は、ラブソングからメッセージソングまでを幅広く歌うマルチ型のグループで、言ってみればこぶしファクトリーとつばきファクトリーの強みを(より洗練された形で)兼ね備えていたようなところがあった。そして「大人期」を支えたベテランたちが最も「世間離れ」したキャラクターである植村あかりだけを残して去った今、現状のJuice=Juiceは方向性として第二の「マルチ期」とも言える状況になりつつあることが昨年のアルバムとシングルで明らかになってきている。実際今回の武道館公演でも、「大人期」の楽曲はほぼ封印され、過去楽曲は「マルチ期」のものがメインになっていた。

こうした状況に置かれたグループにとって、ヴァリエーションに富んだ大量の楽曲ストックは強力な強みになる。メンバーの成長度合いに合わせながら、かつ観客を飽きさせないようなセトリを組み続けられるからだ。実際、この一年Juice=Juiceを定点観測するようになって、アンジュルムと比較してセトリが刻一刻と変わっていくのには新鮮な驚きがあった。特にアンジュルムの場合、ちょうどJuice=Juiceが「マルチ期」に入った頃、逆にグループの方向性を明確に打ち出してしまったため、その「ツケ」が回ってきているというか、たとえセトリを変えても同じような楽曲ばかりが繰り返されてしまう部分はどうしてもあるのだろう。

また、これは別記事でも書いたことだが、Juice=Juiceがスマイレージよりデビューが遅かったため、Juice=Juiceの初期楽曲はアンジュルムのスマ曲よりも精神年齢高めに書かれている。つまり同じ「少女期」とは言ってもスマイレージ楽曲が常に「アンジュルムの最年少メンバー」に相応しいものだとすれば、Juice=Juice初期楽曲は最年長と最年少の中間あたりのハイティーンがターゲットで、どうしても「歌のお姉さん」が子供の歌を歌っているように聴こえてしまう前者と比べ、後者はグループ全体としてみた時に全く違和感を覚えないのである。食べ物にたとえるならセトリの中でスマ楽曲が出てくるとまるでコース料理の途中にデザートが出てくるように感じてしまうのだが、Juice=Juice初期楽曲はつんく♂一流の癖のある味付けに富んだお惣菜が出てくるようなもので、非常に効果的なアクセントとして機能するのだと感じたものだ。

おそらく第二の「マルチ期」は第一の「マルチ期」に比べ、年齢構成の点での人数の点でも重厚で多様性に富んだものになっていく気がしている。それを予兆していたのが前述の「Vivid Midnight」であろう。あの曲が発売された時の人数が7人、最年長(宮崎由加)と最年少(梁川奈々美)の年齢差が7歳だったのに対し、今回の人数は10人、最年長(植村あかり)と最年少(遠藤彩加里)の年齢差は10歳に拡大している。前述した演出の妙もさることながら、グループ編成の変化がもたらした多様性と重厚感が、「Vivid Midnight」という楽曲の持つ祝祭性を見事に拡張させていたのだと自分は思う。

メンバーの歌唱力

さて、どんなに楽曲ストックが豊富で多様性に満ちているとは言え、それを歌うメンバーに歌唱力が備わっていなければ意味がない。

この数年で一気に世代交代が行われたJuice=Juiceの若手の「現時点での実力」は、当然卒業したベテラン勢の「卒業時点での実力」に比べれば落ちる。そのことをとやかく言う意見というのも時々見かけるのだが、改めて2016年武道館の「Magic of Love」などを見てみると、現状は全く悲観すべきものではないことがよくわかる。というのは、2016年の「Magic of Love」の歌唱面は、ほとんど高木紗友希と宮本佳林が引っ張っていて、金澤朋子がそれを後方からアシストする、という状況だったからだ。高木と宮本は言うまでもなく例外的に早熟な「神童」であり、晩成型の植村あかりはこの時点ではまだ発展途上であった。つまり「オリメン」というのはいささか神話化されすぎていて、「マルチ」期の前半、高木と宮本が今の有澤一華の年齢になる頃のJuice=Juiceは、「5人のグループを3人が引っ張る」ような状態だったのである。

その後Juice=Juiceがいわゆる「アベンジャーズ」状態に突入するのは「マルチ」期の後半、段原瑠々という規格外の新人が入ってきた後のことである。この頃になると植村あかりが十分に成長し、グループの大半が「歌唱メン」と呼べる状態になった。歌えるメンが増えるということは既存の歌唱メンの負担が減り、各々のパートに注力するエネルギーの総量が増えるわけだから、グループ全体の歌唱の力強さは加速度的に増していく。その結果、その後のJuice=Juiceはその歌唱力で周囲を圧倒することをミッションとして課せられたグループになっていったのである。決して「お姉さん組」三人以外のパフォーマンスレベルが他グループの同年代に比べて低いわけではないにせよ、「アベンジャーズ」時代の高すぎる理想を追い続けるヲタクの中には、ここ一年の現状に幻滅する者も出てくるのもわからなくはない。

確かに昨年の前半などは年長三人にばかり歌割が回り、その負担から段原瑠々と井上玲音に疲弊が見られるようなこともあった。しかしそれはあくまで過渡的な現象に過ぎず、特にこの半年のJuice=Juiceは月単位で歌割が変わり、メイン歌唱を任されるメンバーが増えていった。具体的には工藤由愛、松永里愛、有澤一華の三人である。特に有澤は明白な「歌唱メン」扱いで上三人に食い込みつつある。つまり現状としては年長三人+有澤が2016年時点での高木紗友希と宮本佳林の位置にあり、ゆめりあいの二人が金澤朋子の位置にあるということで、「六割のメンバーがグループを引っ張る」という比率については、ついに2016年の状況に追いついたのである。

実際、武道館公演から遡ること10日ほど前に大阪城ホールでの彼女たちの公演も観ることができたが、パフォーマンスの圧が加速度的に上がったように感じられたものである。そのメカニズムはおそらく前述した通りで、他の三人に歌割が渡ったことで負担を軽減された段原瑠々と井上玲音が安んじて己のパートに集中できるようになったことが大きいのではないか。そしてゆめりあいを含めて今後の伸び代が期待できる若手がグループの半数以上を占めている以上、この増圧の加速度が今後もさらに増していくことは既に約束されている。先日の大阪城ホールでの自分の感慨は、Juice=Juiceは再び「周囲を圧倒する」アベンジャーズルートのとば口に立ったな、というものであったが、今が「第二の2016年」であると考えてみれば、改めて腑に落ちるものがある。特に自分などは既に天高く輝いている太陽よりは、夜の闇を切り裂いて昇り始める太陽を眺めるのが好きな人間である。今のJuice=Juiceがハロプロの中で最も面白いグループということになるのは当然なのだ。

メンバーのドラマ

さて、ここまで「何故今回のJuice=Juice武道館公演がこんなに満足度が高かったのか?」という問いについて、まずは舞台演出、楽曲、そしてメンバーの歌唱力とテクニカルな話を論じてきた。そして歌唱力の項で話は次のフェーズに入りつつある。何故ならアイドルパフォーマンスの満足度には、単に「パフォーマンスレベルの高さ」だけではなく「パフォーマンスレベルの向上」を含めたドラマ性が大きく関係してくるからだ。特にJuice=Juiceの場合、メンバー一人一人が持ち合わせているドラマが実に多種多様で、今回の武道館公演は各々のドラマ性が交錯するアリーナと化していたようなところがあった。

⑴植村あかり

別記事でも繰り返し書いている通り、彼女は非常にスケールの大きい人物であり、「既存の枠組みに引き付けて何かを提示する」という感覚が全くない(その代わり「既存の枠組みを乗り越えてやろう」的な妙な鼻息の荒さもないのだが)。そのため、リーダーになってからしばらくは彼女が提供しようとしている「構え」の形がなかなか周囲には理解されにくい時期もあった。だが、Two of usのCチームで、他グループとそのヲタクも含めて「座長」を務めるという経験を通して、その辺りの安定感がかなり磨かれてきたように感じている。今回の武道館における彼女の「座長」としての仕切りぶりは、その集大成と言うべきものであった。

植村あかり自身は極めて脱ドラマ的な人間なので、彼女自身を何らかのドラマに当てはめて考えようとしても仕方がないのだが、それでも彼女の役回りは何なのかを考えていくと、それは「メンバー一人一人のドラマを活性化させる」壮大な狂言回しということになる。このことは先程から述べている「大人期」から第二の「マルチ期」へ、というグループのフェーズ移行と大きく関係してくる。「大人期」のJuice=Juiceにはグループを見舞った激動もあいまって「哀愁に満ちた大人のドラマ」が課せられていた。そして植村もまた、少なくともその外見については「大人期」に適合的なメンバーであった。

だが一方で彼女の歌声はと言えば、宮本佳林のようなアイドルサイボーグでもなく、高木紗友希のようなディーヴァ型でもない。かといってそのルックスの割に、金澤朋子のような哀愁歌唱に徹しているわけでもない。まさに彼女にしか出せない、何とも独特な歌声なのだ。そうしたわかりやすい「枠」への収まりの悪さが、上記三人に比べて彼女の歌唱力が低く評価されがちな理由だったのかもしれない。だがその収まりの悪さが、逆に融通無碍な形で楽曲を味付ける万能調味料として機能し始めているのが最近のJuice=Juice楽曲の特徴である。かくて一見哀愁に満ちた「大人」な外見ゆえに、「涙のヒロイン」の役を強いられていた彼女が、偉大な狂言回しとしての本然を解放させていくプロセスの集大成こそが、今回の武道館公演だったのではないだろうか。

⑵段原瑠々と井上玲音

前述の通り、段原瑠々はJuice=Juiceの歌唱面を牽引する存在でありながら、同時にグループの歌唱面における底上げの恩恵を最も受けているメンバーであろう。

彼女は高木紗友希と同じディーヴァタイプでありながら、その人間性においては悲壮感だとかギラギラした印象を全く受けない。歌唱メンとしてグループを引っ張るというより、歌唱メンが他にも多数いる中で軽やかに歌と戯れるのが好きな人なのではないかという気がしている。それゆえに半年くらいまでの過渡期、彼女に過重な負担が強いられていた時期には、少し窮屈に見えてしまう時期があった。ところがグループが再びアベンジャーズルートに入りつつある今、彼女は負担から解き放たれ、再びのびのびと歌と戯れ始めたように感じる。

また一方で純粋に彼女の声音だけを考えた場合、それは「ひとそれ」の歌い出しに顕著に見られるように「大人期」の哀愁に適合的なものであった。だが彼女の人間性が最もあらわれているのは、実は「ひとそれ」の歌い上げよりは「イニミニマニモ」での寄り添うような歌声であったり、「全部賭けてGO!」の前向きな熱唱なのではないか。その意味では、そのキャリアの大部分を「大人期」のJuice=Juiceで過ごしてきた段原瑠々が、表現者として真の開花期を迎えるのは今後なのではないかという気がしている。

アイドルグループにおける後輩の成長は先輩の歌割が奪われることとイコールだが、段原に関してはその辺りのギスギス感とは無縁であろう。彼女の喜びは、他人と比べてどうこうという話ではないように思えるからだ。多少歌割こそ減るかもしれないが、その代わり彼女のソロイベントが企画されていることも明るいニュースだ。それに幸いにして彼女は、大勢の歌声の中でも絶対に埋没することのないインパクトの強い歌の持ち主である。後輩が成長すればするほど、段原の輝きは増していくに違いない。

さて、あらゆる面で段原瑠々と好対照なのが井上玲音である。段原は一見哀愁に満ちた歌声でありながら、陽だまりのような空気感を備えた人物である。一方井上はまさに「こぶし魂」直系とも言うべきストレートで力強い歌唱を武器としながら、常に悲劇性から逃れられないキャリアを歩んできた。彼女はその悲劇性を殊更にアピールすることもないが、それを隠すこともしないので、今回のような大舞台ではMCやブログという形で彼女が抱えている緊張感が噴出し、改めて様々なことを考えさせられてしまう。

Juice=Juiceの「大人期」の文化というものは大人になったオリメン組以上に、苦労人揃いの移籍組が漂わせる哀愁に支えられていたところがあった。その意味で井上玲音の抱える悲劇性と大人びた外見は、移籍先の文化に最初からフィットするものであって、おそらくは彼女自身が思う以上に、彼女はいきなり「大人期」のJuice=Juiceを牽引する存在になってしまった。また半年くらい前までの過渡期のJuice=Juiceにあっては、段原瑠々と同じく過重な歌唱負担を背負うことにもなった。そして過重負担から解放された段原が軽やかに歌を楽しんでいたのに比べると、苦労性の井上はそこで得た余剰リソースを責任感へと結晶させ、強い意気込みをもってグループ歌唱を牽引する仕事に邁進していたように感じる。井上の意気込みがあってこそ段原は伸び伸びと羽根を伸ばすことができ、井上の苦労性を泰然とした段原が和らげていくれるという意味では、やはり「るるれい」は相互補完的な関係性にある

だが「大人期」から第二「マルチ期」に移行しつつ今、井上玲音を取り巻く状況も変化しつつある。前述したように第二「マルチ期」がベースとする第一「マルチ期」のJuice=Juiceは、「こぶつばを足して洗練させたような」グループだったからである。「大人期」のJuice=Juiceが井上のパーソナリティに適合的なものだとすれば、第二「マルチ期」のJuice=Juiceは彼女が培ってきたパフォーマーとしてのキャリアに相応しいものになる気がするのだ。すなわち「Never Never Surrender」のような楽曲に乗せて彼女の真っ直ぐな歌声が響く先には、こぶしファクトリーがついに辿り着けなかった「浄土」の地平が見えてくるのではないか。ここでこの節をまとめるならば、Juice=Juiceの第二「マルチ期」は、段原瑠々にとって表現者としての開花期に、井上玲音的にとっては人格的な解放期になるのではないか、ということを感じた武道館公演であった。

⑶工藤由愛と松永里愛

工藤由愛と松永里愛、この半年のJuice=Juiceの加速度的な底上げの立て役者である。今回の武道館公演では「愛・愛・傘」の前半で若手組、後半でベテラン組が入れ替わる劇的な演出があったが、ゆめりあいの二人は年少ながらにベテラン組に混じって貫禄を醸し出していた。

だが、この二人はある意味高木紗友希と宮本佳林の二人に似て、少なくともパーソナリティの面では「最初からモノが違う」ところがあり、実のところ今更彼女たちの貫禄に驚くことはないと自分は感じている。いずれも唯一無二の強烈な個性の持ち主であり、グループ史としては激動だった「大人期」の中にあって、その個性を順調に成熟させてきた。そして彼女たちのダンスパフォーマンスもまた、彼女たちの個性を十二分に体現するものとして進歩を続け、歌唱面の「表現力」についても同様である。一方で歌唱面の地力については、高木や宮本が彼女たちと同い年だった頃のことを考えれば、工藤の場合は安定感、松永の場合は迫力に欠ける部分はあった。

しかし、この部分についても自分はあまり心配はしていなかった。というのは、10代半ばというのは女性の場合にも変声期に当たるからである。高木紗友希や宮本佳林のような例外を除けば、この時期の女性は歌唱面で安定感や迫力に欠けるものの、10代の終わりに近づいてくると見違えるようによくなるという例を、自分は佐々木莉佳子や笠原桃奈で目撃してきたからだ。つまり全ては時間が解決してくれる問題で、今回の大阪城ホールと武道館公演では、ついに「その時」が来たということである。

そうしたゆめりあい二人の成長ということに加え、「大人期」から第二「マルチ期」への移行というグループの変化も、この二人にとって追い風になるであろう。まず工藤由愛の力強いパフォーマンスに関しては、明白に「大人期」よりも第二「マルチ期」に適性がある。また松永里愛の場合には、彼女の大人びたルックスとミステリアスな雰囲気が、表面上「大人期」にフィットしていたものだが、その英雄的資質を考えると、「マルチ期」のカオスの中に彼女を置いた方がとんでもない大化けを果たす確率が高まるだろう。臥竜と鳳雛は地上で十分に成長し、しかも風雲を得つつある、ということである。あとは乱世の天高く舞い上がるのを待つのみであろう。

⑷有澤一華と江端妃咲

今回武道館の大舞台で「Never Never Surrender」のフェイクを見事に披露した有澤一華は、ゆめりあいの二人と同様、あるいはそれ以上に、この半年のJuice=Juice底上げの立役者である。彼女の場合特に音楽面において最初からゆめりあいを凌駕する資質を持っているのだが、その資質が開花するまで加入以来約一年の足踏み期間があったせいで、Juice=Juiceの底上げが本来よりも少し遅れてしまった、ということは言えるかもしれない。

その理由としてはまず彼女がその気弱な性格から、グループの新陳代謝に対する一部の保守的なヲタクの抵抗感を気にし過ぎてしまったのではないか、ということがある。だが、より本質的な問題はやはり「大人期」と第二「マルチ期」の移行が若干ゴタついてしまったことにあるように思える。

彼女の加入は「プラスティック・ラブ」発売の半年前、すなわち「大人期」の最末期であった。それから半年後、「大人期」を支えた立役者である金澤朋子が卒業し、そのまた半年後にもう一人の立役者である稲場愛香が卒業した。金澤の卒業が彼女の体調にかかわる問題だったため、なかなか先が見えなかった上に、明白な「会長案件」である「プラスティック・ラブ」の発売が済まない限り、おそらくはグループが次のフェーズに進むことが出来なかったということもあって、有澤は「大人期」の終わりまで半年待ち、そこからさらに半年のフェーズ移行期間を待たなければならなかったのである。工藤以上に「マルチ期」適性の高い彼女にとって、この半年間は居心地の悪いものであったに違いない。

もっともその埋め合わせとして「プラスティック・ラブ」のカップリング曲「Future Smile」では彼女にバイオリンソロという見せ場が与えられ、稲場の卒業直前に発売されたアルバム『terzo』のアルバム曲はどれも「マルチ期」色が強くなった。その意味では「イニミニマニモ」MVでの主役抜擢と「全部賭けてGO!」での歌唱力披露は、事情を知る者にとっては既定路線ではあったのだろう。だが「その時」がやってくるまで気弱な彼女の心が折れてしまわぬよう、グループ全体が常に彼女を気遣い続けたのが2022年のJuice=Juiceだったように思う。

一方、有澤一華と対照的なのが江端妃咲であった。彼女は有澤より年少で、パフォーマンス面でも発展途上にある。だが江端は有澤よりもいい意味で図太いところがあり、己の未熟さを逆手にとる形で2022年前半のうちに「悪ガキ」キャラという形で己のポジションを早々と確立させてしまった。その意味では「大人期」から「マルチ期」への空気の入れ替えを率先して行なっていたのが彼女であり、Juice=Juice新時代開闢の最大の貢献者だったとも言える。

なお、江端妃咲のパフォーマンス面についてであるが、前述のゆめりあいの場合と同じ理由で、自分は全く心配していない。全ては時が解決してくれる問題である。ただ、これは心配というよりは純粋な興味なのだが、現時点では己の「未熟さ」を適応戦略として用いている彼女が今後成熟を経た後、何を繰り出してくるのかということはとても気になるところである。彼女の天性の稚気は「ノクチルカ」の「世間はそんなに甘くないと説く有象無象」パートのようなアイロニカルな使われ方をした時に、最もスリリングな魅力を発揮するからだ。そして、まだグループが過渡期にあった頃から堂々と「悪ガキ」ぶりを発揮し始めた彼女が、成熟を経た後も簡単に鉾を収めるとは思えないのである。武道館の大舞台でうっかり音を外した時にカメラに抜かれ、堂々とてへぺろ顔をかましていた江端が今後どのような変貌を見せるかは、有澤一華が秘めている底知れぬポテンシャルとともに、Juice=Juice新時代の大きな見どころである。

⑸石山咲良と遠藤彩加里

さて、石山咲良と遠藤彩加里の二人は稲場愛香の卒業後、Juice=Juiceが完全に「マルチ期」へと舵を切った後に入ってきたメンバーである。前述の通り有澤一華の覚醒を急がなければならなかったということもあり、残念ながら彼女たちの見せ場はあまりなかった。だが、これはJuice=Juiceではいつものことであるし(思えば、かの「ゆめりあい」コンビが本格的にフィーチャーされたのも「Familia」MVを待たなければならなかった)、まさに時代の端境期がデビューシングルと重なってしまった有澤一華の不遇感、あるいはそれを自らの手で覆していった江端妃咲のアグレッシヴな姿勢と比較すると、石山と遠藤は終始穏やかにグループに適応していっているように感じられる。

ただし、そこに若干の温度差はある。たとえば石山咲良の場合は元々、有澤一華と研修生同期という経緯もあり、遅れてやってきた苦労人の気負いのようなものはある。本人も「緊張しい」であると自称し、実際加入当初は表情や動きが固かったように感じる。だが、そこに有澤のケースのような深刻さは全くない。加入タイミングのよさもさることながら、石山は有澤よりも図太いところがあって、今回の武道館MCのように己の「緊張しい」を軽やかなネタとして昇華できてしまうところがあるからだ。馴染んでくるとなかなかアナーキーなキャラクターのようであるし、声量があって動きもダイナミックなので、一度ブレイクスルーが訪れた時はすぐに大向こうにインパクトを与えることができそうに思える。

一方、最年少で一般加入した遠藤彩加里は石山咲良とは対照的に、加入当初から伸び伸びと過ごし、すくすくと成長しているように見える。その意味では江端妃咲のケースとも近いのだが、遠藤の場合は江端のような外連味がない。その代わり新生Juice=Juiceのわかりやすいバロメーターになりつつある。それはすなわち、日々成長する彼女の身体から繰り出されるダイナミックなダンスの振幅である。武道館公演でも多くの非Juice=Juiceヲタが彼女のダンスに目を奪われていたが、まさにこれが以前自分が論じた「申し子」メンとしての役割なのだと思う。植物を育てることは「物事が着実に進展する」という前向きなメッセージを深層心理に与える点で精神衛生に効果があるという話があるが、遠藤彩加里とは新生Juice=Juiceの成長を暗示すべく植え込まれた、天まで伸びる豆の木なのだ。

おわりに:入江里咲という「要石」

ということで、ここまでJuice=Juiceメンバー一人一人の「ドラマ性」について論じてきたが、その中で自分が意図的にスルーしてきたメンバーが入江里咲である。その理由は、彼女だけはグループの中で少し特異な存在であり、「ドラマ性」という枠で彼女の重要性を語るのは難しいように思えたからだ。

もっとも自分は当初、彼女の存在を有澤一華と同じ枠で理解しようとしていた。デビューのタイミングが不遇で、かつ江端妃咲のように自らの手で逆境を覆していくアグレッシブさは持たない控えめな女の子。そんな彼女が有澤とともに「イニミニマニモ」MVの主演を勝ち得たのはそうした不遇の「埋め合わせ」、といったイメージだ。だが一方で、有澤に対してはひたすら後輩として気にかけていた先輩たちが、入江に対してはいつも一目置くような態度をとっていたこと、有澤と江端の入江に対する信頼感が絶大である点は少し気になっていた。彼女はパーソナリティにおいてもパフォーマンスにおいても決して派手な人ではないだけに、ヲタクにはわからない、近くにいる人だけが感知できる何かが絶対にあるに違いない、ということは何となく思っていた。

そうこうしているうちに2022年も後半になった頃、いつのまにか入江里咲が内面から発光するような輝きを放ち始めた。そしてその発光パターンは、一般加入メンの多いアンジュルムでよく見られるケースである。伊勢鈴蘭や川名凜が、完全にグループに馴染んだ時に見せたパターンなのだ。その頃、自分は入江のことを「静かなる伊勢鈴蘭」と呼んだことがある。明らかに伊勢と同じ発光パターンなのだが、そこに伊勢のようなわかりやすい「やってんな」感がないため相変わらず手掛かりが少ない。そんなことをずっと考え続けて先日、入江の「千夜一夜」の配信があるという話を目にした。自分は早速これを購入し、二時間かけて彼女のパーソナリティをプロファイリングしてみた。その結果、ようやく自分が納得のできる仮説に辿り着いた。

入江里咲は、とんでもなく「マルチ」な人である。

彼女が自分の人生をクロニクルで振り返る時、毎年のように英検や漢検、あるいは何らかの大会で優勝した記録が積み上がっていくのである。それだけで彼女が大変に文武両道な人というのがわかるものだが、重要なのは「彼女が自分の人生を達成した目標の連続して捉えている」という点なのだと思う。この点については、先に引用した井上玲音のブログが一つのヒントになる。

りさって本当に努力の人だなぁって思います

いや、ゆーてハロメンって
みんな努力の人なんですけど。
その中でも
努力の人だなぁって感じるくらいなんです

まさに井上玲音の言う通りで、「努力の人」であることがデフォのハロメンの中で、何故井上が殊更に入江里咲を「努力の人」だと思えるのかを考えてみると、おそらく入江が「努力せずに努力できる」人だからなのではないか、という仮説に行き着く。おそらく入江は幼少時から「目標を定め、その達成のために必要なことをする」ということをあまりにも当たり前にやってきたので、殊更に肩に力を入れるようなことをしなくても「努力」ができてしまう。あるいはその裏返しで、努力を変に秘めたりすることもしない。だから公の場で己の努力目標の達成記録を陳列するようなことが出来てしまうのだ。

その意味で彼女は不必要なことは絶対にしないし、必要なことは必ずする。だからJuice=Juiceに新人が入るということを知った時に、「自分たちの力不足ではないか」ということを3flowerと話し合い、植村あかりにも伝えている。そしてそのことを、ブログでファンにも伝えているのだ。非常に率直で風通しが良い人である。先輩からも同輩からも後輩からも信頼されるのは当然であろう。

また入江里咲は、自分に歌割がなくて悔しい思いをした、ということも正直にブログに綴っている。彼女の歌唱力については、他のグループであれば普通に歌割が与えられるレベルの力強さと安定感を備えたものであることを、REC動画を引用しながら論じたこともある。しかし、残念ながらJuice=Juiceは「歌声で周囲を圧倒すること」を使命づけられたグループだ。普通のグループなら入江に与えられてもよいはずの歌割も、「圧倒できる」ポテンシャルを備えた有澤一華に優先的な形で回さなければならないのだ。だが制作陣はその埋め合わせとして、入江に「POPPIN' LOVE」の台詞と「イニミニマニモ」MVの主演を与えたのだろう。与えられた仕事は一切の気おくれなくこなすのが彼女という人である。それが「あざとい」と言われがちな点も、やはり伊勢鈴蘭と構図が近い。

それに絡んだ話で言えば、入江里咲に妙にソロ仕事や外部仕事が多いのも、彼女の不遇に対する事務所側による「埋め合わせ」なのかと思ったこともあったが、どうも違うのではないか、と思うようになった。千夜一夜での彼女いわく「最近は相手の質問の意味を考えて、必ずそれに応えられるように話している」ということであったが、彼女はまたしても見事に努力目標を達し、聡明な受け答えを続けていた。つまり事務所がソロ仕事を依頼するとなった場合、ゆめりあいも含めてクセの強いメンバーの多いJuice=Juice若手陣の中で、入江だけが「安心して一人で外に出せる」メンバーなのではないだろうか。彼女にソロ仕事が多いのは決して「埋め合わせ」などではなく、単に彼女の聡明さが上層部に買われている結果なのでは、と思うようになったのである。

さて、そろそろ結論に入ろうと思う。今回の記事では、Juice=Juiceメンバーが哀愁溢れた「大人期」の涙のヒロインという単一のドラマを降板し、各々のドラマ性が開花する「マルチ期」へと向かっているのだ、という見通しを示した。昨秋に武道館公演が中止になった時には、まだ「涙のヒロイン」の呪いがグループに残っているのでは、ということも一瞬胸をよぎったが、振替公演が決定したという話を聞いて「これはチャンスだ」ということを思った。というのは、昨秋の時点でのJuice=Juiceはまだ「歌で圧倒する」レベルには達していない、と感じたからである。

そしてメンバー各々のドラマ性が繚乱する「マルチ期」にあっては、入江里咲のようなメンバーはどうしても傍目に埋没しがちだ。彼女のようにライフスタイルとして問題解決に特化し、不必要な自己アピールもしなければ余計な韜晦もしないような人間は、どうしても「ドラマ性」とは無縁になってしまうからだ。しかしメンバーたちは、そしてスタッフは、彼女がJuice=Juiceに必要不可欠な人間であることをよくわかっている。彼女が常に抜群の安定感をもってそこにいてくれるからこそ、それぞれのドラマが大きく逸脱することもなければ、互いに衝突することもないのである。彼女はいわばJuice=Juiceの「要石」なのだ。その色は鈍色だが、目を凝らしてよく見ればJuice=Juiceの輝きを反射して光り輝いている。そしてその姿が見えないという人がいるのであれば、皆で声を合わせて叫べばよいのである。

ここだよりさち」と。







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