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阿修羅の偶像(アイドル)第3章第1節、第2節

登場人物一覧

第3章:天龍八部

ここまでのお話はこちら

摩睺羅伽像(三十三間堂)

第1節

 足元から、また轟音が響いてくる。
 竹林精二は、公園の端っこにあるベンチに腰を下ろし、多摩丘陵の稜線を眺めている。この公園は線路沿いの高台にあるので、何分に一度か眼下を電車が通り過ぎていくのだ。
「竹林さん」
 後ろから声がした。振り返ると、水戸玲耶がニコニコと手を振りながら歩み寄ってくる。この待ち合わせ場所は、彼女が指定したものであった。
 フロンティアプロダクションという大手芸能事務所に勤めた後、その系列会社という形で小さな芸能事務所を構えたばかりの竹林にとって、コロナ禍は大きな転機となった。思い切って地価の高い都心を離れて事務所を郊外に移転し、社員には大規模なリモートワークを導入した。そして、ミーティングのスタイルも大きく変わった。
「すみません。授業が長引いて」
 今回の事務所は、玲耶の通う大学院にほど近い場所にあった。彼女との付き合いは彼女のデビュー以来八年、長く彼女たちのマネージャーを務めた気心の知れた仲ではある。だが、それにしてもこうやって屋外ミーティングに喜んで付き合ってくれるのは、彼女の心持ちの闊達さのおかげだ、と竹林はしみじみ思う。
「おお、今日は富士山が綺麗ですね」
 玲耶はそう言って、紙袋からホットラテを取り出しながら竹林の横に座った。線路の向こう、多摩丘陵の遥か彼方には、夕陽を浴びた富士山がその偉容を露わにしている。
「そういえば、最近富士山がやけに綺麗だな」
 竹林が呟いた。こうやって自然百景を身近に感じるようになったのは、コロナ禍のおかげかも知れない。
「青龍の気が、出てきてるそうですよ」
「え?」
 竹林は思わず玲耶に聞き返した。昔から彼女は突拍子もないことを口走って周囲を戸惑わせるところがある。付き合いの長い竹林でも、時に目を白黒させられることが多い。
「ほら、よく話に出てくる天海(あまみ)先生、彼がおっしゃってたんです。富士山を祖山とする関東山地の下には大きな青龍が住んでいて、こないだの庚申の夜以来、東京に向かって強力な龍脈の気が放出されてるんだって」
「ああ、風水とか、そっち系の話か」
 竹林は苦笑した。大学、大学院と進学するにつれ、彼女の知識は途方もないスケール感でどんどん広がっていく。修士課程を終える頃にはどうなってしまうのだろうと、竹林は楽しみでもあり、ちょっと怖くもあった。
「修論の方は、順調か?」
「だいたい構想は固まりました。でも、」
 玲耶は少し首をかしげると、
「まだまだ論拠を固める必要があると思います。夏以降はちょっと大変かも。だから例の話、今しかないと思いまして」
「おお」と竹林は声を弾ませた。
 去年の春、大学院で研究に専念するためにShangri=laを卒業した玲耶は、ちょうど時期的にコロナ禍の始まりに重なったせいで、卒業ライブを無観客で行わざるを得なかった。そして玲耶は、彼女の卒業を現場で見送ることができなかったカメラの向こうのファンに向けて、「時が来たら必ず会う機会を作る」と約束したのだ。
「だが、夏までとなると、かなり急がないとな」
 竹林はそう言って腕組みをした。卒業後、竹林の事務所に移籍することだけは内定したまま活動休止した玲耶には、ライブをやろうにもソロで歌える楽曲ストックはない。
「その辺は既に考えてきてます」
 玲耶はそう言って、トートバックから一束の書類を取り出した。
「……企画書?」
 竹林は舌を巻いた。企画書を自分で書いてくるアイドルなど、今まで会ったことがなかったからだ。だが、やはりこうでなければならないのだろうな、と思いを新たに、書類に目を通し始める。
 竹林は、主にフロンティアプロダクションのグループを卒業したアイドルのセカンドキャリアをサポートするという志のもと、新しく会社を立ち上げた。水戸玲耶という規格外のアイドルは、その大きな指針になるだろうと竹林は考えている。そして彼女は、「アイドルの自主性を重んじるべし」という事務所の指針を、早くもその行動によって示してくれているのだ。
「羅睺院(らごういん)……寺か?」
「はい。天海先生のお寺です。七月の大庚申祭で、毎年ちょっとした音楽イベントをやったりするらしいんですよ。先生に、何ならそこでちょっと歌ってみないか、って誘われて」
「歌うって、曲はどうするんだ?」
「天海先生、仲間うちでインディーズバンドを組んでるそうなんです。だから、私が詞を書いてくれば、曲は用意してくれる、って」
「そいつはえらく多才な坊さんだな」
 竹林は驚嘆しながらも、業界人らしく脳内の算盤を弾く。寺の住職で大学でも教えているとなれば、社会的には信用できそうな人ではある。
「ちなみに、境内はこんな感じです」
 玲耶はそう言ってスマホを取り出すと、竹林に羅睺院境内の写真を見せた。
「なるほど、結構広いな……」
「イベントの時は御堂の四方の板を取り払ってステージにするって、先生が仰ってました」
「そうか……境内の建物はこの御堂しかない?」
「はい。あとはお寺の方達の住居だけです」
 だとすれば、まるで野外ライブイベントをやるために作られたような寺だ、と竹林は思った。コロナ禍で会場確保に一苦労する昨今、この寺を使わせてくれるならばこんなにありがたい話はない。
「あ、あと、大事なこともう一つ。使用料は要らないそうです。全部先生のご厚意で」
「は?」
 竹林は耳を疑った。玲耶は少し得意げな顔をしている。運営が喜ぶ話を自ら持ってこられたことが嬉しいのだろう。
「この寺、どこにあるんだ?」
「青海市です」
「……そうか……」
 少し遠いな、と、竹林は思った。だが、アイドルファンというのは推しのためなら千里の道を超えてでも馳せ参じる生き物である。「青海」という地名は江東区にもあってよくアイドルイベントが行われるのだが、間違えて東京の外れの青海市まで行ってしまうアイドルファンの話もよく聞く。特に玲耶のカリスマ性と卒業の経緯を考えれば、その距離は全く問題にはならないように思えた。
「イベントって、他には誰が出演するんだ?」
「天海先生が参加されてるバンドです。なんか、メンバーに私のファンの方もいらっしゃるみたいで。もし私が参加するなら大喜びするだろう、って。例年は身内と地域の方だけで催されるイベントだそうなんですが」
「そうか……」
 竹林は考えを巡らせる。だとすれば、前列部分を有料にして、玲耶のファンを優先的に入れた上で、後列は一般客への宣伝用に無料にするという手がよいだろう。この広さならば、ソーシャルディスタンスを考慮しても十分なキャパがある。あとは特典グッズを用意することでそれなりの価格設定にしても、玲耶のファンならば十分ペイしてくれそうだ——
「で、これ」
 玲耶はトートバックからスケッチブックを取り出し、竹林に開いて見せる。そこには三面六臂(さんめんろっぴ)の仏像のスケッチが描かれていた。
「……何だこれ?」
「特典でTシャツを作るなら、このデザインがいいかな、と」
 玲耶はニッコリと笑った。

水戸玲耶Tシャツ原画デザイン

第2節

「ほんとだ……」
 応接室にお茶を運んでいった沙羅が、目を丸くして戻ってきた。
「ほんとにレイヤだ……何で気づかなかったんだろう……ヤクシャもヤクシャだよ。何で言ってくれなかったんだよ」
「いや……そう言われても……俺はあの人がそんなにすごいアイドルだったなんて知らなかったし……むしろ沙羅が何で今まで気づかなかったのかが謎だな……」
「最近目が悪くなってるからなあ。これがないと、世界が霧に包まれるんで……」
 沙羅はそう言って眼鏡の縁を触る。
「それにレイヤ髪切っているし、マスクもしてるし……それにですね。たとえばあなたの目の前に、あなたがコモド諸島にいるわけでもないのに、いきなりコモドドラゴンが現れたとしましょう。あなたはそれをコモドドラゴンだと本当に認識できますか? いや、これはぬいぐるみだ、と思いませんか?」
 沙羅が真顔のまま繰り出す比喩が激しく迷走している。保(たもつ)の身の回りだけでもこれだけの人々の感情を激しく揺さぶることのできる水戸玲耶という人は、やはり凄い人だったのだな、ということを保は改めて思った。保は彼女のことは知らなかったし、今までも彼女とはほんの二、三回しか会ったことはない。だがほんのそれだけの接触機会からも、彼女という人間が常人ではないということは十分に伝わってきたものである。
「おい、何をごちゃごちゃ喋ってるんだ」
 その時、炊事場の扉を先生が開けて、二人を手招きする。
「こっちにきて、ご挨拶なさい」
「……は、はい……」
 保と沙羅は、先生の手招きに応じるままにお茶の間に入り、仲良くぺこりと頭をさげる。
「うちの姪と寺男です」
「水戸のマネージャーをつとめます竹林です。よろしくお願いします」
 竹林さんという人は、小柄で素朴そうな中年男性であった。アイドル業界の人間というと先日の台場のようなイメージばかりを想像していた保は、少し肩透かしを食らったところもあった。
「水戸さんという巨人の肩を借りて、我々のような有象無象を水戸さんのファンの方々に知っていただけるとは嬉しい限りです」
 先生は慇懃に頷きながらそう言うと、
「しかし、我々前座としては存在を知ってもらえることが第一目的です。前座は無料配信でよいのではないですか? その方が、微力ながら真打ちの水戸さんのための集客の役割も果たせると思うのですが」
「……うーん」
 それを聞いて竹林さんは複雑な顔をしている。そこに先生はさらに食い下がって、
「水戸さんの出番だけ有料配信、というわけにはいかないのですか?」
 と、その時、
「私の出番も無料配信にしていただくわけにはいかないんですか?」
 水戸さんの発言に、場が一瞬静まりかえった。すると水戸さんは、納得できない子供のような顔になって、
「だってそうじゃないですか? 私も天海先生と同じで、なるべく多くの方に自分の歌を届けたいんです。もちろん、それで採算がとれなくなるというならば仕方がないですが……」
「正直、配信で得られる収入など大したことはない。特に今回は会場代がかからないし、チケ代を多少高めに設定しても、君のファンは確実に会場を埋めてくれるだろうから問題はない。だが……」
 竹林さんは、そこで少し言葉を探していたが、
「……そういう問題じゃないんだ。無料配信になるとコメント欄が途端に荒れる。君のファンじゃないユーザーが簡単に紛れ込んでくるんだよ。ネット上にはただでさえ君のことを快く思わない保守的なアイドルファンが多いだろ? それを——」
「私のファンの方は、私のやること、言うことはいつだって全て褒めてくれます。だから、」
 水戸さんはそう言って唇を尖らせると、
「私のファンじゃない方に、私の考えを届けない限り、何も変わらないんじゃないですか? 私が今回この場所をわざわざ選んで、世の中に伝えようとすることの意味がなくなると思うんです」
「素晴らしい」
 先生がそう言って手を叩く。
「では、水戸さんの分も無料配信にしましょう」
「いや……しかし……」
「そうでなければ、会場を無料でお貸しするお話もなしです」
「え……」と竹林さんの顔色が変わる。
「その代わり、そうしていただければ、本寺の山の幸、川の幸を竹林さんにご提供します。弁当として売るのなら、その収益は全て竹林さんにお渡しします」
「……うむむむ」
 俯いて考え込む竹林さんをよそに、先生と水戸さんが嬉しそうに目配せするのを保は目撃した。どうやらこの二人は最初から共謀して、どうにかして水戸さんの出番を無料配信にしたがっているようなのだ。水戸さんがそうしたいという理由はわかる。だが先生の方の理由が、保にはよく分からなかった。
「……もう少し、考えさせてください」
「わかりました。ところで、」
 と先生が口を開いた。
「小腹も空きましたし、少し河岸を変えませんか?」

「ああ、そういうことならうちのカレーも出品しますよ」
 と、ファルークさんが嬉々として言う。
「どうせ近いうちに移転して出直そうと思ってるんです。竹林さんに閉店出血大サービスしますよ。みんなももちろん異論ないよね?」
「……はい」と厨房からナラキンさんの震え声と、
「……はい」と店の奥から翼の震え声が聞こえた。
「ちょっと翼、何やってんの? 早く水持ってきてよ」とファルークが怪訝な顔で店の奥を覗き込む。すると「……店長」と蚊の鳴くような声が応え、
「申し訳ありません……お水運んでいただけませんか? あたしが運ぶと確実にこぼす自信あるんで」
「まったくしょうがないね」
 ファルークさんは苦笑を浮かべ、店の奥へ向かう。すると厨房からナラキンさんが、
「ファルーク」
「何だ?」
「カレーも頼む」
「お前もか!」
「店長大忙しだな」
 先生は愉快げに笑うと、水戸さんと竹林さんを見て、
「お話した通り、皆水戸さんの大ファンなんですよ。失礼に思われるかもしれませんが、緊張で出てこられないだけです。どうかご容赦を」
「え? そうなんですか?」と水戸さんは目を丸くした後、ふと思い出したように、
「ところで、皆さんのバンド名は何ていうんですか?」
「A&D8」
 と、先生が即答した。
「A&D、すなわち『アスラ(龍)とデーヴァ(天)』ないし『エンジェルとドラゴン』です」
「そうか! 『天龍八部衆』ですね!」と水戸さんが目を輝かせる。
「改めて一人ずつ紹介します」
 先生は、カレーを運んできたファルークさんに手を向けると、
「これがドラムのファルーク。厨房にいるのがキーボードのナラキンです。奥にいる翼は体育大学のダンス科に通っていて、曲に合わせたダンスパフォーマンスを披露してくれます」
「俺は、今回は出ないよ」
 厨房からナラキンが答える。
「身内だけだとばっかり思ってたからな……生配信なんて冗談じゃない。まあ、オケは打ち込みで作るから、それで勘弁してくれ」
「あたしも……」と奥から翼も答える。
「大勢の人に見せられるようなものではないですから……」
「そんなことを言わないでください!」
 水戸さんは、バンッとテーブルを叩いて立ち上がると、
「私は皆さんのパフォーマンスが見たいです! 是非出演してください!」
「……はい」と厨房からナラキンさんの震え声と、
「……はい」と店の奥から翼の震え声が聞こえ、先生とファルークがニンマリと笑みを交わす。
「そして、」と先生は沙羅の肩に手を当てると、
「沙羅は、私たちのバンドのギタリストでもあります。今回のステージにも登場する予定です」
「そうなんだ! よろしくお願いします」
「いやいやいやいや、そんなわたくしなぞ……ハハハ」
 沙羅はこわばった笑顔のままヘリウムガスを吸った人のような笑い声を立てる。
「ちなみに沙羅は作詞作曲も嗜んでおりまして」
 そう言って、先生はスマホを取り出し、竹林さんに見せた。
「こちらを」
「水天……バルナ?」と竹林さんが首を傾げ、
「ちょ、ちょっと叔父さん、何を?」と沙羅が気色ばむ。
「うちの水天像を模したヴァーチャルアイドルのボカロPとして、ちょっとした名を馳せているようです」
「これはすごい」
 沙羅のホームページを見ながら、竹林さんが驚嘆しきりに呟いた。
「どの曲も大した再生数だ……才能のある方だということは、これだけでよくわかりました」
「いやいやいやいやいやいや」
 蚊の鳴くような声で否定しながら、沙羅は俯いてしまった。
「水天……」
 水戸さんは、スマホを覗きながらボソッと呟くと、顔を上げて沙羅を見て、
「沙羅さん、お願いします。私の歌う曲を書いてください。私の作る詞に曲をつけてください。今回私は、」
 水戸さんは沙羅の目をまっすぐに見て言った。
「水天様の歌を、歌いたいんです」
「水天様の……?」
 沙羅の目が大きく見開かれた。それを見て先生は、してやったりという表情を浮かべると、
「まあ、沙羅には少し考えてもらいましょう。そしてギターといえば、これなるヤクシャ君も、大庚申祭で披露するために、最近ギターの手習いを始めたようです」
「へえ! いいですね!」
 水戸さんは目を丸くして言った。
「八草さんのギター、是非聞きたいです!」
「いやいやいやいや」と保は懸命にかぶりを振る。
「僕も身内でやるんだとばっかり思ってましたよ。こんな大事になるならさすがに話は別です!」
「えー、そうなんですか?」
 不満げに頬を膨らませる水戸さんの隣で、竹林さんは少しホッとした顔をしている。さすがに水戸さんの晴れ舞台にズブの素人が上がるのはまずい、と考えているのだろう。
「じゃあ八草さん、他に何かできないんですか? 歌とか、踊りとか」
 水戸さんが食い下がってきた。保はまた「いやいやいや」と言いながら、
「そんな人様に見せられるようなものは……精々プロレスくらいしか……」
「プロレス?」
 その時、竹林さんの目が光った。
「八草さん、体格のいい方だと思っていましたが、プロレスをやられていたんですか?」
「いや……大学のプロレス愛好会でやっていただけですが……」
 と、保は竹林さんの豹変ぶりに戸惑いながら答える。
「不躾ですが、八草さん、大学は?」
「政法です」
「政法のプロ研? 名門じゃないですか!」
 竹林さんはそう言って大きく目を見開いた。すると先生が、「確かに面白い」と頷いて言う。
「古来庚申の夜には、村人は音曲の他に相撲などにも興じていたそうです。ライブとプロレスというのは、伝統にかなっています」
「やりましょう」と言って、竹林さんはどーんと胸を叩いた。どうやらこの人、とんでもないプロレスヲタクだったようである。
「八草さんの対戦相手の手配もやらせていただきましょう。何ならレフェリー役も私が務めます。ちなみにご住職、境内にリングの設置などは可能でしょうか? 簡単なものでよろしければ、こちらで手配させていただきます」
 すると先生は、「うーん、リングですかあ」と勿体ぶるように唸りながら腕を組むと、
「境内は聖域ですからねえ。あまり俗世のものを持ち込みすぎるのはいかがなものかと。だとすれば、他の部分で少しケガレを減らす必要があります。たとえば、」
 そう言ってニヤリと笑い、
「配信の方の金儲けをお控えいただく、とか」
「……む」
 竹林さんは悔しそうな顔でしばらく懊悩していたが、やがて「……わかりました」と呟く。それに合わせ、水戸さんが小さくガッツポーズをした。
「まったく、ご住職にはかないません」
 竹林さんはそう言って頭を振ると、「さて」と言って腕時計をちらりと見て、
「そろそろお暇しなければ、あ、いや、ここは弊社が」
 そう言ってそそくさとレジに向かう。その背中を見送りながら、水戸さんが「そう言えば」と言って小さく首を傾げると、
「A&D8、天龍八部って、今んとこ、先生、ファルークさん、ナラキンさん、翼さん」
 そう言って指を折り始める。
「あと沙羅さんと、八草さんも入るのかな? まだ六人ですよね。残りの二人は——」
 その時、店のドアが勢いよく開く。そして、青い衣が鮮やかに翻った。
「ほう」
 バルナが目を細め、興味深げに店内を見回している。
「珍しいな。天龍揃い踏みか」
 そう言って保たちの方に近づいてくるなり、ぎょっとした表情を浮かべて、
「……何?」
 絶句したまま凝視するバルナに向かって、水戸さんが小さく目で会釈をしたのを保は見逃さなかった。
「お前は……水戸玲耶?」
 バルナは目を丸くしている。バルナが驚きのあまり先ほどの水戸さんの会釈を見過ごしたことに、保はホッと胸をなでおろした。何しろ今のバルナなら、水戸さんに殺人バスターすら仕掛けかねない。
「おや、既に水戸さんをご存知とは」
 先生はそう言って小さく肩を竦めて笑いながら、
「どうやらガンダルヴァ勢の『布教』が功を奏しているようですな。この度は大庚申祭に水戸さんを迎え、音曲を披露していただくことになりました。楽しみにお待ちください」
「ほう」と、バルナは気を取り直したように笑顔を浮かべると、
「この踊り子の歌舞はファルークに見せてもらった。女だてらに実に力強い舞であったぞ。よいだろう。楽しみにしている」
 バルナは胸を張って水戸さんを見下ろした。すると水戸さんは小さく会釈した後、バルナの目をぐっと覗き込んで、
「女であるかどうかは、力強さとは関係がないと思います。そして私は踊り子ではありません」
 そう言って凛然と立ち上がり、言い放った。
「アイドルです」
 水戸さんはそのまま会計を終えた竹林さんのもとに向かい、再び笑顔に戻ると、「それではみなさん、今回はよろしくお願いします!」
 竹林さんとともに深々と一堂に向かって頭を下げ、店を出て行く。その背中を呆然と見送るバルナが、ボソッと呟いた。
「……『アイドル』とは何だ?」

「まあ、いい。それにしても思った通り実に気の強い女だ」
 バルナは苦笑しながら肩を竦めると、先生の方を見て、
「五部浄(ごぶじょう)、あの女に負けぬよう、お前たちも勇壮な音曲を奏でねばならんぞ」
「お言葉ながら、王子様」
 すると、ファルークさんが少し挑発的な眼差しをバルナに向けて言った。
「以前申し上げた通り、人道は『進化』しております。男のあり方、女のあり方というものも、この数十年で実に様変わりしたものですよ。たとえばこの乾闥婆(けんだっぱ)、ついこの前の前世ではえらく肩身の狭い思いを強いられたものです。その点、」
 ファルークさんはちらりとナラキンさんを見て、
「今生は実に生きやすくなったものです。いかに王子様の命とは言え、時計の針を逆戻りさせるようなことはご勘弁願えれば、と」
「さよう」と先生が続ける。
「勇壮さは私どもの性には合いません。ここはバルナ様ご自身が『男らしさ』を見せつけてやる、というのはいかがでしょう?」
「バルナが?」
「はい」と言って、先生は保の方を見やると、
「実はこの度、祭の余興にプロレスを催すことになりまして、ヤクシャの対戦相手を探しております」
 保の胸に嫌な予感が走った。
「ここはバルナ様が名乗りをあげる、というのはいかがでしょうか?」
「……面白い」
 バルナはそう言って不敵に笑った。
「どのみちこやつとは人道を去る前に雌雄を決しなければならぬ、と思っていたところだ。望むところぞ」
「では、決まりですな」
 先生は満足げに笑いながら、またバルナを見ると、
「ではバルナ様におかれましては、安んじて庚申の日に向けて牙を研いでいただければ幸いに存じます。もう三匹目の『虫』をご自分でお探しになる必要も今やございません。何故なら、」
「何?」とバルナが顔色を変えるのを見届け、言った。
「庚申の日にバルナ様のため、三匹目の『虫』を奉ずる準備は、これにて万端に整ったからです」


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