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【追記】アンジュルムとJuice=Juice徹底比較決定版

※本記事は下記事の追記になります(今回は四千字程度です)

「アンジュルムとJuice=Juice徹底比較決定版」、多くの方に読んでいただけたようで嬉しく思っております。書き上げた後になって色々と補足すべきこともあるなと思い、つらつらとツイートで付け足したりもしているのですが、その過程で、今回の記事でほとんど言及しなかった、大きな「穴」の存在に気づきました。

それは「宮本佳林とは何者なのか?」という問題です。

上記のアンジュルムーJuice=Juice対応表に従えば、宮本佳林は現Juice=Juiceリーダー植村あかりと同学年で同格、現アンジュルムリーダー竹内朱莉とはご存知の通り腐れ縁の幼馴染になります。現Juice=Juiceメンバーに対する「裏番」感を考えても、例えばアンジュルムにおける勝田里奈と対照可能な存在であるようにも思えます。

しかし一方で今回の記事で論じた通り、現在のJuice=Juiceは竹内体制のアンジュルムよりは和田体制のアンジュルムに近い部分が多く見られます。そう考えると、竹内朱莉の同格である勝田里奈ではなく、和田彩花の同格である福田花音と対照可能な存在として捉えた方がしっくりくる部分もあります。

実際、宮本佳林と福田花音には以下三つの共通点があると思います。

①頭一つ抜けたパフォーマンス力を備えた「エリート」である点

②自己理想としての「可愛いアイドル」像をオンステージでは徹底的に演じきるストイシズムを備えている点

③その代わり何故かオフステージでは(特にネットを駆使する形で)ネタ要員と化してしまう点

このうち、特に重要なのは③です。というのは、この点に両者の大きな違いが見られるからです。

福田花音の「ネタ要員」ぶりはある意味非常にアンジュルム的だと思います。よく知られているように彼女はオフステージではその人間くささを全開にするあまり、特にガチな「お騒がせ」へと発展してしまう。本論で論じた通り、アンジュルムは「自由」と「統制」なら「自由」をその基調に持つグループなわけですが、福田の場合にはステージ上では徹底して統制的に「可愛いアイドル」を演じきる分、ステージを降りた時の人間くささが尋常ではない勢いになってしまいがちです。そこにはある種の「質量保存」の法則があるのかもしれません。

ところが宮本佳林の「ネタ要員」ぶりには福田花音の危なかっしさがありません。彼女は非常に完成度が高く安定感のある道化者として、ヲタクにネタを提供し続けています。つまり宮本のオンステージでの「人間くささ」は「統制」を基調に持つJuice=Juiceというグループを象徴していると言ってもよい。しかし、言い換えるなら宮本はステージを降りた後も「演じ続けて」いるわけで、だとすれば彼女の意図はどこにあるのだろう、ということはどうしても考えたくなってしまうのです。

ここで少し話は変わるのですが、自分がハロヲタになった頃、Twitter上に「 #わしの今日のお昼ご飯 」というハッシュタグに添えて、各々の昼飯を何故か手ブレのひどい状態で投稿するハロヲタたちのツイート群が目につきました。これは一体どういうことなのだろう?と思ったものですが、調べてみると元ネタは金澤朋子のツイートだということが判明したのです。

SNS映えなど一顧だにしない焦点のボケた写真とお洒落さのかけらもない古典的なスパゲッティ、そして「わし」という一人称。金澤朋子のアイドルらしからぬ「雑」さ加減、人間くささを愛でるヲタクたちがこれを嬉々としてネタにしていったわけですが、自分はこうした人間味の表出も含めて、金澤という人は本当にスマートな人だな、と改めて感じます。そして、それは何も彼女に限った話ではなく、アンジュルムに比べてどうしても「アイドルらしいアイドル」像を背負わされざるを得なかったJuice=Juiceの伝統なのではないか。アンジュルムが背負わされる偶像に対してはっきり「No」を突きつけていったのに対し、Juice=Juiceはより敵を作らない形で人間味を表出していく必要があったのではないか、ということを思うのです。

自分は今回の本論で、金澤朋子は非常に「統制」的なリーダーであるという話をしました。ただし誤解のないように付け加えておくと、彼女の「統制」は他人よりはむしろ自分自身に向かうものであって、それはこうした「ガス抜き」としての人間味の表出の絶妙さにまで及ぶ完璧なものだったように思えます。そして同じことは金澤よりも派手な形で人間味を表出させていた宮本佳林にも言えるわけで、いわば彼女たちはアンジュルムよりも敵を作らない形で、アンジュルムと同じように「オフステージの私たちは偶像ではなく人間だ」というメッセージを発し続けていたのではないでしょうか。

さて、アンジュルムの場合は、より明確に「オフステージの私たちは偶像ではなく人間だ」というメッセージを発し続けた結果、最終的に「人間が人間らしく生きるべきだ」というメッセージを背負う偶像へと変貌を遂げました。一方、少なくとも金澤体制下までのJuice=Juiceは、グループとしてアンジュルムのようなメッセージ性を背負っていたわけではありません。しかし、改めて宮本佳林個人に限定してその事跡を振り返ってみると、彼女がアンジュルムのメッセージ性において果たした大きな役割が浮かび上がってきます。

それが、「たけかりん」だと思うのです。

「たけかりん」とは、簡単に言えば「宮本佳林が竹内朱莉にウザ絡みをし、冷たくあしらわれる」というショートコントの反復です。竹内の話では、幼い頃は宮本のウザ絡みが本当に嫌だったとの話ですが、今では冷たくあしらいつつも宮本をしっかり受容しています。竹内が大人になったということも大きいのでしょうが、もしかしたら、わざわざファンの前でこの茶番劇を繰り返すことで「オフステージの私たちは偶像ではなく人間だ」というメッセージを自分たちとは違う方法で発信しようという宮本の心の機微に、竹内は気づいたのかもしれません。

まあ「たけかりんが何故もたらされたか」については所詮邪推の域を出ませんので、「たけかりんは何をもたらしたか」の方に話を移したいと思います。竹内朱莉という人はよく知られている通り、他人に対する当たりが結構強い人です。しかし一方で、人一倍安心感を周囲に与える人でもあります。では、その安心感は一体どこから来ているのでしょうか。

その系譜の一端が「たけかりん」にある、というのが自分の仮説です。

宮本佳林が竹内朱莉にその素質を見出していたからウザ絡みにいったのか、あるいは逆に竹内が宮本によって「鍛えられる」ことでその素質を開花させていったのかは、これまた推測の域を出ません。しかし、より容易に想像しうるのは、このショートコントが繰り返されることで、周囲のメンバー(特に竹内の後輩)やヲタクの無意識に何が植え付けられるか、ということです。それは「この人は口ではズバズバ言うが、相手の人格を決して否定しない」ということではないでしょうか。

その際「口ではズバズバ言う」という要素が抜けた場合には、絶対に安心感は生まれません。人は表面上はいくらでも取り繕うことができるということは、皆よく分かっているからです。そうではなく、竹内朱莉は宮本佳林のことを心底鬱陶しがっている。にもかかわらず彼女のことをちゃんと受容している。これが、先日PRIDEさんが記事に書かれた「心理的安全性」なのだと思います。つまり「たけかりん」は結果的に、周囲に向けての「心理的安全性」のプレゼンテーションとして機能したのではないか。それが自分の仮説になります。

宮本佳林と金澤朋子という、アンジュルムよりも間接的、統制的な方法で「ガス抜き」を続けていたメンバーは早々と卒業し、最も直裁的で解放的な植村あかりがJuice=Juiceのリーダーに就任した。そのことでJuice=Juiceというグループの振り子は「統制」から「自由」へと大きく振れるのではないか、というのが今回の本論の論旨でありました。しかし、だからと言って別にJuice=Juiceがアンジュルムになるわけではなく、あくまでJuice=JuiceはJuice=Juiceなのだという点が何なのかと言えば、やはり彼女たちはアンジュルムメンバーよりもはるかに「自分たちの在り方についてのプレゼンテーション」に自覚的であることだと思います。その意味では、実は植村ですら「自然体で在ろうとするプレゼンテーション」にはかなり自覚的に思えることが多いし、その伝統は工藤由愛や松永里愛の中にもそれぞれの形で継承されています。そしてその「分かりやすいセルフ・プレゼンテーション」というJuice=Juiceの伝統が、宮本を通す形で期せずしてアンジュルムに「心理的安全性」をもたらしたのだ、という話はあくまで自分の仮説に過ぎません。ただ、いずれにせよ「アンジュルムとJuice=Juiceの歴史」というテーマで語る以上は、宮本佳林という巨人の存在はかくも大きいものなのだ、ということを改めて強調することで、本論の追記と代えさせていただければ幸いです。

※追記の追記

宮本佳林に「オンステージの完璧なアイドルとしての顔」、「オフステージの道化の顔」の裏にもう一つの顔がある、ということを改めて意識したのは、彼女が卒業後すぐに長大な「振り返りブログ」を更新し始めた時なのですが、先日の「アプカミ」でのインタビュー映像では、「抜群に知的で真摯な女性像」としての宮本の素顔が本格的に前面化してきているように感じられました。下記にリンクを付しますので、「振り返りブログ」と共にご覧頂ければ幸いです。


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