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上國料萌衣のアンジュルムならとっくに始まってる

はじめに

そんなわけで、6月21日に横浜アリーナに行ってきた。そして公演を観終わった後、自分は一つ心に決めたことがあった。

それは、竹内朱莉の卒業公演の素晴らしさや、彼女のリーダーとしての偉大な事跡について、今後自分は語らないようにしよう、ということである。

その理由の一つには、「そんな当たり前のことは自分が語るまでもない」ということである。実際、既に卒業公演後、有名無名の様々な人々の口から竹内朱莉を讃える言葉が紡がれている。そしてそれらに付け加えるべき新しい言葉は、今となっては自分のもとにはない。逆に言えば、彼女とアンジュルムの美徳がそこまで人口に膾炙したからこそ、横浜アリーナにあれだけの人々が集まったのだと思う。

ちなみに和田彩花の卒業の時には、自分は同じようには考えられなかった。当時和田彩花とアンジュルムの美徳は、今ほど世の中に知れ渡っていなかったからである。なので自分は、彼女と彼女の卒業公演がどんなに素晴らしかったかを説き続ける必要性を感じていたのだと思う。だがしばらくしてから、それはあまりよくないことなのではないのか、ということに気づき、次第に口を噤んでいった。

それは自分が、日本武道館での竹内朱莉の涙を見ていたからである。

アンジュルムというグループは本当に信じられないほど風通しが良い。あの時彼女たちは、まるで楽屋で繰り広げられるような人間模様を大観衆の前で披露してくれた。その中でも竹内朱莉のことを自分は「この人はパブリックイメージに反して大女優体質だな」と評したこともある。思えば田村芽実の卒業公演の時からそうだったのだが、リーダーに就任することへの不安をあそこまで赤裸々に吐露できるというのは、並大抵の肝の座り方ではありえない。逆に言えば彼女の赤裸々な不安に触れることで、この人はリーダーの器だと自分は確信したものである

だが、周囲の目と本人の感じ方はやはり違う。そして竹内朱莉のリーダー就任後、世代交代とコロナ禍が同時にアンジュルムを襲った。彼女が理不尽にも叩かれるような局面もあった。そんな時に前リーダーの偉大さを讃えてしまうと、彼女を叩く棍棒を準備してしまうのではないか、と自分は考えたのである。

実に幸いだったのは、ちょうどこの頃を境に和田彩花もソロ活動を本格化させていったことである。和田彩花が「隠れたる神」にならずに済んだのだ。山縣有朋が早死にして高杉晋作が早逝しなければ、前者が幕末の英雄として語られ後者が明治の妖怪として忌み嫌われていただろうということを言っていた人がいたが、「神話化」はどうしても人を優劣で配置することに繋がってしまう。だが和田彩花が旺盛に活動し続けてくれたことで、自分はアンジュルムの新旧リーダーを「優劣」でなく「差異」に基づいて「大アンジュルム」という枠組みの中にマッピングすることが可能になったのだと思う。

上國料萌衣のために必要な言葉と不要な言葉

さて、翻って「今回」はどうであろうか?

上國料萌衣という新リーダーには、竹内朱莉にはなかった「圧倒的な多忙さ」という大きな負担がのし掛かっている。もちろんそのことでアンジュルムは「リーダー自らが外部メディアに向かってグループの魅力を直接発信する」という強力な戦略的アドバンテージを得た。だが、この体制はあまりに中央集権的であり、彼女一人にかかる負担がとても大きい。そして竹内朱莉が和田彩花からグループを引き継いだ時に比べると、上國料萌衣が竹内朱莉から引き継ぐアンジュルムはあまりにも大きくなり過ぎてしまっている。また、卒業後すぐにエッジの効いたソロ活動を開始した和田彩花とは異なり、竹内朱莉のソロ活動の立ち上がりがスローペースになりそうなことも少し気がかりである。その間に前リーダーの「神話化」が起きてしまうかもしれないからだ。

さらに、竹内朱莉には彼女の魅力を見事に言語化して発信することのできる最強の親衛隊ーたけヲタ軍団がいた。それに比べると上國料萌衣の愛され方は「広く薄い」印象がある。実際、公式メディアを通した彼女についての情報量が、竹内朱莉に比べれば圧倒的に多いということもその原因であろう。多くのヲタクにとって上國料萌衣とは、常にそこで輝いている太陽のようにあまりにも「当たり前」であり、あえてその魅力を掘り起こして言語化する必要のない存在のように思われている気がするのだ。しかし、公式メディアを通した言葉は、どうしても規格化されたものになりがちだ。大アンジュルムという大宇宙の中で「優劣」ではなく「差異」によって前リーダーと並び立つには、たけヲタ軍団の精鋭たちがここまで日夜紡いできたような、ヲタクによる「血の通った言葉」が必要になると自分は考えるものである。

そんなわけで自分が横浜アリーナを出た時に真っ先に思ったのは、「今後竹内朱莉についての言葉は封印し、上國料萌衣についての言葉を口にしたい」ということであった。もしかしたら上國料萌衣にかかる重圧は、かつての竹内朱莉以上のものになるかもしれない。だとすれば、その重圧をいたずらに重くする言葉は不要だ。必要なのは、重圧を軽くするための言葉なのである。

上國料萌衣と竹内朱莉の共通点

さて、その上で自分に何が言えるか、と考えた時、まず思いついたのは、上國料萌衣と竹内朱莉の共通点についてである。

先ほど自分は、新旧リーダーは「優劣」ではなく「差異」に基づいて並び立つものだ、と書いた。だとすれば、まずは二人にリーダーとしての「優劣」がないことを語ればいいのではないか、というわけだ。そんなわけで、自分が考えつく二人のリーダーとしての共通条件をまずは列挙してみたい。


アンジュルムのリーダーは「侍大将」からスタートする

この点は(初代リーダー和田彩花を除けば)、ここまで常に「完全な年齢順」でリーダーが決まってきたJuice=Juiceとは異なる部分である。竹内朱莉は中西香菜よりも数ヶ月年少だったし、上國料萌衣も川村文乃よりも数ヶ月年少だ。無論中西香菜は既に卒業を控えていたわけだが、今のところ川村文乃にその気配は微塵も見当たらないことを考えると、アンジュルムのリーダーが決まる上で、単なる年齢順よりももっと積極的なプリンシプルが存在するように思えるのである。

それが「侍大将」としての経験値ではないだろうか。

竹内朱莉も上國料萌衣も、リーダー就任前から「後輩への積極的な指導」という形で侍大将としてのポジションを確立していた。無論、竹内朱莉にはサブリーダーという役職が既にあったわけだが、一方の上國料萌衣は長らく役職とは無縁であった。そしてそのことは、サブリーダーの川村文乃が後輩への指導を怠っていた、ということを決して意味しないだろう。ただ「後輩に対して最も熱心に指導する存在」として、竹内朱莉の口からも川村文乃の口からもそして後輩たちの口からも、自然と上國料萌衣の名前があがるのである。つまりアンジュルムの生態系の中には、役職とは関係なく、あくまでメンバーの適性に応じた形で「侍大将」というポジションが存在し、それが次期リーダーへの登竜門となるのではないか、ということを考えてしまうのである。

ちなみに上國料萌衣が「侍大将」として頭角をあらわしてきたのは、竹内朱莉のアンジュルムが荒波を経験した最初の一年間であった。2020年の10月に書かれた橋迫鈴のブログのことは、今でも自分の記憶に残っている。

上國料さんは、いつも写真撮ろって話しかけて下さったりと凄く人柄が大好きなんです

この写真の時も私の眼鏡つけて写真撮って下さって誕生日の日に使っていいからって言ってくれたんです
😂😢

画像の橋迫鈴が少し困ったような顔をしているのに思わずくすりとしてしまう。常にさりげなく粋なアプローチが持ち味だった竹内朱莉に比べると、上國料萌衣の侍大将ぶりにはいつもサザエさんのような押し付けがましさがある。だが、それが唯一無二のユーモアとなって後輩に愛でられるのが彼女の魅力である(思えば、その「愛で方」のロールモデルとなったのは最初の「後輩」であった笠原桃奈だったのかもしれない)。その意味では、同じ「侍大将」という型の中に、今後上國料萌衣が竹内朱莉とは異なる偉大な「大将」として並び立つための原型が潜んでいるのかもしれない。


アンジュルムのリーダーは「不完全変態」の生き物である

先日堂島孝平氏が「竹内朱莉さんは昔から何も変わっていない。変わらないままでずっと来たら、最後に時代が追いついた」ということを語っていた。実は自分も横浜アリーナで彼女の昔の映像を観ながら同じことを思っていて、とにかく声、話し口調から表情まで、昔から何も変わっていないのである。

だが、自分は少しばかり補足したいとも思った。たとえば自分がアンジュルムを追いかけ始めた10年代半ばの頃の竹内朱莉は、まだ要らぬところで自分の苛立ちを露わにするような未熟さがあったように記憶している。あるいはスマイレージの頃の映像などを遡って観てみると、もっと激しく感情を露わにしたり、ひどくはにかみ屋なところも見せていた。その頃に比べると、彼女はとても安定し、当たり前だが「大人になった」と思う。ただし、彼女の生来の気の強さを失ったわけではなく、たとえば先日の「汚れ役」インタビューの時のように、その気の強さをアンジュルムのパブリックイメージを高めるような局面で効果的に発揮するようになったのだと言える。

つまり彼女は昔と同じ形質のままで脱皮を繰り返し、より大きくタフになり、最後には見事な羽根を生やして飛び立っていった。その姿は昆虫にたとえるならセミ、トンボ、バッタなどの「不完全変態」と言えるかもしれない。対照的なのは笠原桃奈で、アンジュルムに加入した「幼虫」の頃と、卒業していった時の「成虫」の姿では、芋虫と蝶ほどの違いがあった。彼女は蝶や甲虫のような「完全変態」の生き物なのだと思う。

一方上國料萌衣は、竹内朱莉と同じ「不完全変態」の生き物だ

上國料萌衣のいつでもぎこちなく、バタバタしている。その形態のまま成長した。「かみこ日和」の形態のまま、加入発表動画の時に、矢島舞美に「今の率直な感想を聞かせてください」と問われて「めっちゃ可愛いですね」と即答した率直さのまま、横浜アリーナのサイズまで大きくなり、ついにはリーダーとしての羽根を生やしてしまったのだ。

何故アンジュルムのリーダーは「不完全変態」でなければならないのか? その答えは、上國料萌衣の加入と同時に卒業していった福田花音が新たに加入したZOC(現:METAMUSE)の名曲「DON'T TRUST TEENAGER」の歌詞が雄弁に物語っていると自分は思う。

大人になれば消える衝動なんてゴミ
そんなものに縋ったこと一度もないから

DON'T TRUST TEENAGER
DON'T TRUST TEENAGER
初期衝動も初恋も要らない
永遠に少女

大森靖子の書く歌詞は多義的なアイロニーに満ちているのだが、そのアイロニーは常に英語圏の人間のようなロジックに貫かれている。「大人」と「子供」を峻別する認知の枠組みを用い「大人」になることが強いられた時、我々は人として不可欠な個性を馴致してしまう。だが同時に、その枠組みを逆用して「子供」であることに固執してしまうと、人として必要な成熟を放棄してしまうのだ。「馴致されないまま成熟せよ」これが「地獄のアンジュルム」たるZOC/METAMUSEのメッセージであり、「天国のZOC/METAMUSE」たるアンジュルムのリーダーが「不完全変態」の生き物でなければ理由なのだと、自分は考えている。

ちなみにこの記事のヘッダー画像は、竹内朱莉の卒業直前に川村文乃がInstagramに投稿した動画の中の一コマである。言うまでもなく川村文乃が竹内朱莉との思い出を綴った感動の大作動画なのだが、自分はその中でも比較的最近の一コマとして挿入されていた上國料萌衣とのシーンに目を奪われてしまった。彼女は何故こんなにいつまでも「いい顔」をするのか? それどころか、彼女の野良娘のような「いい顔」は、ファッションアイコンとしての洗練と比例するかのように、ますますパワーアップしているようにすら感じられる。そのことを思うにつけ、変な笑いとともに涙が込み上げてきてしまうのである。やはり人間というものはこうでなければならないのではないか。何故なら我ら諸人は、なべて神の似姿として創られたはずなのだから

上國料萌衣と竹内朱莉の相違点

さてアンジュルムのリーダーとしてのもう一つの条件に、「徹底してグループを立てる」というものがある。

ただし前リーダー二人を比較した時、その方法はリーダーの個性によって異なる。和田彩花の場合はより理念的で、竹内朱莉の場合はより実践的だという話は以前から何度も触れてきた。だが、いずれにせよそうしたリーダーのあり方は、彼女たちの卒業公演に端的な形で現れる。彼女たちは決して自分が目立とうとせず、残されるメンバーが輝くような振る舞いを徹底することで、その現役活動を締めくくってきたのである。

しかし横浜アリーナを出た時、自分は和田彩花と竹内朱莉の違いのようなものをぼんやりと感じていた。

かつて和田彩花の卒業公演が終わった時に自分が思ったのは、彼女の印象が記憶に全く残っていない、ということであった。記憶に残るのはただ、残されるメンバーたちの顔であり、言葉ばかりであった。ところが竹内朱莉の場合は違った。彼女の顔が、彼女の言葉がくっきりと刻まれていた。無論、アンジュルムのリーダーたる彼女は、残されるメンバーを立てるような振る舞いに終始していた。だが面白いことに、彼女のそうした立派な姿が鮮烈な記憶として残ってしまっていたのだ。和田彩花の時は、そうした姿さえ思い出せなかったのとはまるで対照的である。

この話は、先ほど述べた「和田彩花は理念的、竹内朱莉は実践的」という話とは矛盾するはずである。総じて竹内朱莉のリーダーとしての振る舞いはさりげなく洗練されていて、不器用なところの多い和田彩花に比べると「悪目立ち」するところがなかったからだ。それが何故最後の最後でこうなってしまったのか。そのことを考えているうちに、自分ははたと気づいた。あの時の和田彩花並に、全く言動の印象が記憶に残らなかったメンバーが一人いたのである。

上國料萌衣である。

かろうじて自分の記憶に残っていたのは、先ほど述べた「三枚目」としての彼女の印象である。だが、これはやはりおかしい話である。何故なら彼女は次期リーダーなのであり、本来はその継承劇がクローズアップされる形で、和田彩花の卒業公演の時の竹内朱莉のような「主役」になってもいいはずなのだ。だが思い返してみると、上國料萌衣が次期リーダーになるという話は、卒業公演の中で一度も明示的に語られなかったのである。

その理由は、おそらくは双方向的なものではないかと自分は考えている。一つは上國料萌衣に大舞台での重圧を与えないよう、あえてそのことに触れなかった竹内朱莉の配慮である。そしてもう一つは、逆に竹内朱莉を主役として送り出そうという上國料萌衣の姿勢が徹底していたということではないだろうか。あの三三七拍子のくだりにしても、彼女が三枚目として「つぶれる」ことで、お色直しを終えて「今あかりってゆったでしょ!」と言いながら出てきた竹内朱莉を目立たせる結果に繋がっていた。つまり、和田彩花に比べて竹内朱莉が「目立つ」卒業公演になったのは、上國料萌衣の力によるところが大きいのではないかと自分は思い至った。そしてさらに大変なことに気づいたのである。

上國料萌衣リーダーのアンジュルムは、とっくに始まっていたのだ。

本来主役になるはずの自分が、他のメンバーを立てるのが「アンジュルムのリーダー」なのだ。その意味では、和田彩花卒業公演の時の竹内朱莉はまだ「アンジュルムのリーダー」ではなかった。あの大舞台で不安の涙を流すことで、彼女自身が主役になってしまったからだ。ところが上國料萌衣は、竹内朱莉の卒業公演の間から「アンジュルムのリーダー」としての振る舞いを始め、前リーダーを目立たせる役割に邁進していたのだ。その意味では、前回の継承劇が次期リーダーを目立たせた前リーダーの手による明示的なそれだったとすれば、今回の継承劇は前リーダーを目立たせた次期リーダーの手による暗示的なものだったと言えるのではないだろうか。

思えば竹内朱莉は不思議なアイドルであった。人を教え導くリーダーとしてのコミュニケーションスキルは、おそらくアンジュルムリーダー史上最も高いだろう。だが時としてその苦労人的な器用さによって、彼女自身のアイドルとしての煌めきが抑え込まれてしまう局面も少なくはなかったと思う。ところが彼女が「アイドル」らしい涙を流しながらリーダーの座にのぼり、また「アイドル」らしい煌めきを振り向きながらリーダーの座から去っていった。そしてその立役者となったのは、彼女よりもはるかに不器用で、それゆえに天性のアイドルとしての煌めきを備えた前リーダーであり、次期リーダーであったのだ。人の魅力の両面が互いにメビウスの環のように連なることで、時に太陽が三日月のように密やかになることもあれば、月が太陽のように光り輝くこともある。何という素晴らしいアイロニーであろうか。これが宇宙を貫く、アンジュルム/神の摂理なのである。

さあ、上國料萌衣の話を始めよう

さて、そんなことを書き連ねているうちに、上國料萌衣がアンジュルムリーダーとして初のブログを更新した。今回の自分の仮説がだいたい裏打ちされたようで、胸を撫で下ろしている。

竹内さんがリーダーになった時って、

メンバーの卒業が続いて大変だったと思うんですよね。。

相談出来るメンバーもきっといなかったと思うし。


そんな姿を本人は見せてないけど、

でもやっぱりうっすらみえてて、

でも見えた部分はほんっの少しで、

見えてない部分にはたっくさんの寂しさとか苦しさとか不安があるだろうなって当時思ってたんです。


だから竹内さんを支えたい、悲しませたくない、って思ったし、

竹内さんの卒業は絶対に絶対に見送るんだ!って強い気持ちでいました。


竹内さんがリーダーになってグループの形が変わってきて、

それがまた少しずつ固まってきて、

竹内さんがリーダーで迎えた後輩はみんな竹内さんの元でめちゃくちゃいい子達に育って、、そんなみんなは竹内さんのことが大好きで、、、



ちゃんと竹内さんを愛いっぱい、幸せいっぱいの状態で送り出せて本当に本当に良かったなと、

心の底から思います

自分は今回の記事を、あえて #竹内朱莉アドベントカレンダーファイナル  のハッシュタグのもとに投稿することにした。これは天高く輝く「太陽」となってアンジュルムを去っていった竹内朱莉の軌道を、その裏にある「月」に徹していた(そしてまさにそのことによって「アンジュルムのリーダー」としての仕事をとっくに始めていた)上國料萌衣の軌道から逆照射しようという試みである。

今までも繰り返している通り、自分はアンジュルムに「単推し」は持たず、あえて言えば歴代のリーダーを推し続けるスタンスをとり続けている。逆に言えばそれは、いわゆる「単推し」の方々よりも卒業のロスが軽いということでもある。「単推し」の方々と共に感傷に浸れないことについては一抹の寂しさを覚えることもあるが、そのおかげですぐに前を向いて周りを見舞わせるところは自分の長所であるとも任じている。メビウスの輪はとっくに裏返りを終え、数日前には「裏面」にあった月は燦然と輝きを放ちながら新しい太陽として地平線の彼方にのぼり始めている。だから自分は自分の長所を活かす形で、一足先にその話を始めることにした。他の皆さんも十分なほどの感傷に飽きたら、ぼちぼちその話に付き合っていただければと思う。何故なら既に自分が論じたように、あの新しい太陽は今まで以上に我々の言葉を必要としているはずだからである。

さあ、上國料萌衣の話を始めよう。

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