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境界を跨ぐということについて

少し前に「扇を手に持ち、鳥居をくぐる」という記事を上げました。その流れからの一連のTwitterで「境界跨ぎ」という言葉がとても大きな意味を持ってるなと思い、あれこれ考えてみました。

まず、最初のツイートはこれです。

それに対して感じたことを書いてみました。

そして、これを書くきっかけになったのがこちらのツイート

このツイートに返信しようと思って書き始めたら、ついつい長くなってしまったので、結局ノートにまとめることにしたというわけです。

というわけで、ここから本番。

境界跨ぎについて思うこと

境界は境、裂け目、坂、崎、宿、差異

中和している時、差異は見えない
差異が見えた時、そこに対化が生まれる

境界跨ぎは次元を超えること
それは等化への衝動と言えるかも知れない

等化とは、間に垂直の軸を立て、グレンと回転させること
だから境界を跨ぐことは次元をひとつ上がることを意味する

等化したものをさらに回転し、反復することで、中和され、新しい自己が確立されていく

中和はグラウンディングであり
奥行きを幅に定着させるということ
そこに至って初めて次の対化を見出すための準備ができたと言える

かつて精子と卵子であったものが、
出会い、ひとつになること

精子は前に進もうという衝動
卵子は選択して受け入れる衝動
それはどちらも原初の衝動であり
それは本能的な方向性である

境界を超えた時、膜消滅し一体化する
それはお茶碗に触れた時に溶けると一緒
お茶を飲んだ時にひとつになると同じ
境界はなくなり自己は拡大する

衝動の結果、境界を跨ぎ、ひとつとなり、わたしとなってきた

わたしとなるために無数の反復を経て
やがてわたしは「わたし」となり、やがて「あなた」に出会う時がくる

対化としての「あなた」を見た時には
衝動として惹きあい、ぶつかりあい、
最後、等化を見出すまでは葛藤が続く
それもまた境界跨ぎだろう

人間は、境界を跨ぐことで
より高次の自己を生み出してきた
その生成の現場が熱水鉱床であり
稽古場の本来の存在意義と言える

熱水鉱床は新しい原子を産むための場
宇宙創造の現場である

差異を見出すため
スローから始まり
空間が裂け、境、坂、崎が現れる
マレビトはそこに降り立つのだろう
舞台が整い、境界跨ぎが行われる

そういう意味では境界跨ぎこそが
原初舞踏の本義と言えるのかも知れない
舞踏とは本来境界を跨ぐということなのだ

思いがけず、熱水鉱床という3年前に初めて原初舞踏に接した時に出てきた言葉を思い出すことになったけれど、

たしかにその言葉の響きは
あの場を表すのにふさわしい言葉かも知れない

持続は魂の場であり
熱さを伴っている

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