見出し画像

踊るということは「花を咲かせる」ということ

原初舞踏の定例稽古がありました。このところ、毎回毎回、大きな発見があってぐんぐんと深まってるのですが、先日の稽古でも、大きな気づきがあり、忘れられない経験になりました。

ベースとしては、前々回の稽古での「さわる」と「触れる」の違いということに通じる話なのですが、今回は、そこからさらに発展していった感じです。

特に僕にとって大きな経験となったのは、手のひらを上に向けて、空気を感じながら、空気に触れながら、ゆっくりと上の方に手を上げていくというものです。上げ切ったら、今度は手のひらを下に向けて、やはり空気を感じながら、ゆっくりと手を下げていきます。

たったそれだけのことなんですが、空気に触れながら手を上げていくと、高さによって、場所によって、空気の濃度が変わっていて、あまりにリアルに、そこに何かがあることが感じられて、今いる空間というものがとんでもないところだとわかった感じがしてきて、思わず泣きそうになりました。それを感じることでグレンと意識が変わるんですよね。

そして、敏感になった掌から、全身に気持ち良さが伝わってきて、全身が鳥肌状態になり、それはエクスタシーであり、アムリタであり、言葉にならないような感覚でした。

でもこれは知ってたことだったなと思います。ちょっと忘れかけてたところもあったけど、実は馴染みのある感覚で、とても大事なことで、思い出せてよかったです。

そうやって、手を上げたり下げたりしながら、空気を感じていると、あまりに気持ちいいので、いつまでもそうしていられます。

そして、そこから動きが始まって、踊りになりそうだなと思いました。空間を感じること自体が、踊りであり、それは空間と溶け合うことであり、空間自体が自分だったと思い出すような感じがしました。

「触れる」ということに意識的になることで、面白いことに幅が消えて奥行きとなり、持続が立ち現れ、距離も時間もなくなった感じがします。

たぶん「触れる」は「溶け合う」に通じるのかなと思います。そしたら「溶けた」途端に空間が収縮して、どこでもここ、いつでも今になってしまったような、なんとも不思議な感じです。

触覚空間は幅空間だと思ってたんだけど、「触れる」ことで、むしろ幅が消えてしまった感じがするから不思議です。しかし「さわる」時には幅が強化されて、分離が強調される感じがあるから、そのあたりに「触れる」と「さわる」の根本的な差異があるのかもしれません。

前回、「目で触れるように見る」ということをしましたが、その時に起こったことも循環が始まって、やがて溶け合いひとつになるような感覚になるということでありました。局所から、非局所への変容と言いますか。。。

そのような意識の状態というのは、もう三次元時空ではなく、四次元空間に抜けたということが言えるのかもしれません。

そうそう、最近、思い出したかのように、またヘミシンクを聞いてフォーカス12やフォーカス21の方に意識を飛ばしたりしていますが、入っていく世界は、同じなんじゃないかなと思ったりします。

違いがあるとすれば、原初舞踏はそこで踊るということです。

最上さんのおっしゃっていた言葉の中で、とても印象に残っているのは、「踊るということは『花を咲かせる』ということであり、そこに『花』を出現させることに意味があるのだ。」という言葉です。

ただ瞑想するというのとは違って、「花を咲かせる」ということ、そこにこそ、踊りが錬金術的なものであり、秘教的なものでさえあるということなのだと思います。

そして同時に、それが空間を開くということでもあり、さらにはそれこそが岩戸開きの本義ではないかと思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?