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落下する

昨日は原初舞踏の定例稽古でした。道すがら、お花があまりにきれいに咲いていたので、思わず立ち止まり、何枚か写真を撮っていたところ、左の方に人の気配を感じて振り向いたら、品の良さそうな老婦人がこちらを見ておられました。

「こんにちは」と声を掛けられたので、「あまりにお花がきれいだったので写真を撮ってたんですよ。」とにっこりしながら返すと、驚いたような顔をされて、「まぁ、あなた、ほんとにきれいな笑顔ですね。こんなきれいな方にお会いするのはひさしぶりです。」と言われました。

「えええ、何事!?」と心の中でとまどいながらも、「ありがとうございます。」と言うと、「私はこの少し向こうに住んでるので、この道は良く通るんですよ。ぜひまたお会いしましょうね。ごきげんよう。」と言って、立ち去られました。

その老婦人、背筋も伸びていて、透き通っているような雰囲気をお持ちで、本当にきれいな方でした。髪もきれいにセットされていて、洋服もおしゃれで、品よくお化粧もされていました。あまりに唐突の出来事だったので、本当に人間なんだろうかと思ったくらいです。

少ししてから振り返ると、白いセダンが止まっていて、後部座席に乗り込まれるところでした。どこかにお出かけされるところだったようです。

それにしても、その存在感はとても心に残り、その余韻をずっと持ちながら、その日の稽古を受けていた感じだったように思います。

さて、ここから本番です。

今日は最初の床稽古の時に、「何度も何度も落下する」というプロセスを加えて行ないました。立ったところから落下し、床に横たわり、そこで一度句読点を打ってから、また立ち上がり、さらにまた落下します。

それを何度か繰り返したあと、最上さんの合図でいつもの床稽古に入ります。

いつもと何が違ったかというと、何度も落下するうちに、落下にもいろんな違いがあることがわかったことでした。前寄りに落ちていく時と、後ろ寄りに落ちていく時では、まるで違います。

ゆっくりと落ちながら、上に引っ張られながら落ちている感覚から、突然ベクトルが変わる瞬間があったりもします。そこに境界をまたぐ感覚に近いものがあったりもします。境界を超えて落ちていく感覚は物理的な落下とは明らかに違い、むしろ本質的な落下という気がします。

どこまでも落ちていくことが可能なようで、床に支えられてようやくそこにとどまっているけれど、そこさえ突き破ってどこまでも沈み込んでいくということもあります。

昔、ヨガをやっていたときのことですが、最後に死骸のポーズで横たわったときに、その時の先生がよく言っていたのは、「目の力を抜いて、目の玉をそのまま後頭部の方向にどんどん落としていって。」ということだったのだけれど、その時にも本当にどこまでも落ちていって驚いたことがありました。

どこまで落ちていくんだろうとそのまま身を任せていたらいつの間にか気を失っていたということがあったけれど、たぶんその時に気を失わずにいたならば、そこが無限遠点ということだったかも知れないなと後年思い返したことがありました。

と、そういうことを考えていたときに思い出したのが、カスタネダが谷底に向かって飛び降りた時のことでした。あの本の中では、その時の落下が何だったのか、そこで何が起こったのか、それについてずっと、延々と話が進んでいったように思います。そういう意味では、落下こそがカスタネダの本のテーマであったと言ってもいいのかも知れません。

何度も何度も落下して、もうこれ以上は落ちられないところまで落ちたときに、初めて位置を見いだすのかも知れないなと思ったりもします。

無限遠点とはそういうことだという気がするのです。だからそれを見いだすためにも、上昇しては落ちることを何度も繰り返すのが、人間のサガなのかも知れないと思ったりします。そのくらい落ちることに没頭したら、宇宙の根源のカタチが見えるところに出るのかも知れません。

しかし、前向きに落ちるのと、後ろ向きに落ちるのと、まったく違う感覚になるのが興味深いです。どちらも経験して、さらにどこまでもどこまでも落ちていくときに、何が見えてくるのか、これについてはひとりでも稽古して試してみようと思います。

そして、これらのことが前回と今回の稽古の中でやった、目を閉じて前後、左右、上下、すべての方向に無限を感じると言うことにもつながってくるのだと思います。

すべての方向に無限を感じると言う位置はたぶん落下し尽くした位置なのではないかという感じがしています。

昨日はそのプロセスに加えて、扇を使いましたが、場の強度と合わせて、ほとんど身動きができないというような感覚でした。最後は音楽が流れてフリーに踊る時間だったのですが、意識を扇に移しているという事もあったのか、その場の強度に圧倒されながら、かすかに息も絶え絶えに、扇の動きに身をゆだねていたという感じだったでしょうか?

踊ったという感覚は全くありませんでした。むしろ全く動けなかったという感覚でした。しかし、あの動けないという質感が、むしろ無限の中においては当たり前だったのかも知れません。最後に、扇を上にかざしたときには上にも下にも、前にも後ろにも、右にも左にも、すべての方向に手足を伸ばして立っているような感じがしていました。そのまま、永遠に立っていたいような時間だったと思います。

思えば、最初の床稽古で何度も落下を繰り返した事により、場の強度が増したということかも知れません。また落下を繰り返したことで、身体の落下度合いがいつもより大きく、より深くまで落ちたのかも知れません。

その落下の影響がとても大きかったのだということが、今になって振り返りながらようやく理解できてきたように思います。

スローの稽古でも、いつもよりひとつ所作を加えて、立ったところからだんだんと降りていき、床にお茶碗を置き、さらに座を構えてから、いつものスローを始めるという段取りでしたが、意識は這々の体と言いますか、いつものような集中力が持てずに終わったと言う感じがしました。

終わってすぐには何があったのかよくわからなかったのですが、とにかくその前の落下によって生じた意識の変化と言いますか、そちらのインパクトが大きすぎてその余韻に引っ張られていたのかも知れません。

それが最後の扇を使った稽古にもつながっていたのかなと思います。終わったあとはなんだかよくわからなかった感じが残っていたのですが、帰り道にお話しした人が、僕の扇を持った時のことをすごかったと伝えてくださり、僕の中では、えーそうだったの?という感じで、驚きでした。昨日終わったあとでは、何もできずにただただ翻弄されたというような感覚があったので、そのように言われたことが意外でした。

でも、その自分で感じていることと、外から見た人の感想とのギャップということこそが、身体というものの奥深さであり、むずかしいところでもあるのかなと思います。

昨日、稽古の中で体験した感覚は持続体験として、身体の中に残っていますから、それを反芻しながら、また新たに動いてみたりもして、今何かつかみかけているような気がしている、その何かを見いだせたらいいなと思います。

しかし、人間というものは、上昇しては落下し、落下してはまた上昇し、なんども繰り返すことで、その限界点を広げていくのかも知れませんね。

そうそう、最後に一言、稽古前に会った老婦人のイメージが、稽古をしているときにも何度も現われていたということも、付け加えて記録しておこうと思います。

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