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絶望からの、いつのまにかの希望

今日書くことは、こちらの半田さんのツイートに触発されて出てきた言葉たちを並べました。基本的にTwitterにあげたものを再編集して、さらに書き足してまとめたものです。

さっき、20歳の頃は絶望していたと書いたけれど、その後の悪戦苦闘の中でずっと求め続けていたのは「いる」ことを実感することと「なる」ことへの可能性の追求だったと思う。これね↓

21歳でインドに行き、22歳の時にバリの踊りに出会えたことはとても大きな出来事だったけれど、それは「なる」ための具体的な入り口がそこにあったからだと思う。

しかし、そういったことの意味がつながってきたのは、ようやく最近のことで、これは2015年からヌーソロジーを思考し始めたことによるところが大きい。

それと原初舞踏でのスローの経験の中で、それがトートタロットの月のカードに描かれている、暗くて狭い門をくぐることと同じことであると確信できたこと。

スローを意識したときに、これは微分だと直観したのは、それまでに何度かその領域に入る経験をしていたからだと思う。その時、そういったことの意味がはっきりとつながって、構造として理解できる位置に出たということを感じたんだと思う。

そう言えば魂合気(たまあいき)の稽古の中でも同じような経験をしていた。ゆっくりと動くこと、重心を後ろに意識して動くときに起こった変性意識状態は、妖怪の世界への参入であり、原初舞踏でのスロー体験と同じものであり、それは昔、バリの踊りの稽古の合間にぼーっとしているときであるとか、ひとりで森の中を散歩するときに入り込んだ、明らかに変容した空間ともつながっているものだと思う。

さらにさかのぼるならば、子どもの頃からそういうぼーっとした時間を過ごすことが好きだったことも思い出されるし、21歳の時にバラナシのガンガ沿いの安宿で経験した一瞥体験的なこともそれらの予兆と言ってもいいような出来事だったのかも知れないなと思う。

その中で見たものはたぶん器官なき身体であり、死の領域であり、すでにモノの中に「いる」という経験だったのだろう。そういったことの意味がつながって、それらが「ある」「いる」「なる」「あらしめる」と言う文脈で整理されて目の前に展開されていることがとてもうれしいと感じている今日この頃。

そんなときに流れてきたこんなツイート

たしかに人間の領域ではそうだろう。だけどヒトの領域に出たら、理解は起こるのかも知れない。

ニーチェの時代にはまだその道筋が見えてこなかったけれど、今は道筋が提示されてきていると思うのだ。

ヒトの領域に出て、「いる」から「なる」可能性。そして「あらしめる」の領域に至ること。それはそんなに遠い話ではなくなってきてる感じがしていて、むしろ可能性の方が感じられるんだよね。ビンビン響いてきてる感じがする。

さて、こういったことを、angelspaceでは展開していきたいと言うこと。ヌーソロジー、占星術、舞踏、キネシオロジー、音叉、タロット等、そしてなにより大事なのは、僕という個性なんだろうと思います。はたしてどんな展開があり得るのか。。。(o^^o)

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