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強度のある足跡

先日の踊りについて反芻しています。全体的にはリハーサルの時より良かったところもたくさんあったと思います。

ただ扇を持ってアドリブで動くところで失敗したという感じがどうしてもあって、そこだけ、正直残念でした。

今回これをやるということに大きな意味があったからこそ、あと少し届かなかったというところで、地団駄踏みたい衝動に駆られているというのが、まさに今という感じなのかも知れません。

最上さんが「本番は公開処刑だからね」と言われたことの意味をひしひしと味わっているという感じです。

しかしこれもまたチャレンジしたからこそ得られた経験ですから、めげずに前向きに受け止めてまた動き出したいと思います。

それにしても、あそこではやはりのびのびと生き生きと花を咲かせたいなと思います。

すごくイメージはあるし、一人で練習してる時にはできてることも多いのに、いざそれを舞台でやることのむずかしさということでしょうか。

特に扇を手に取るところからですね。いつかはできたらと思います。

そんなことを考えていたら、最上さんのツイートが流れてきました。

自分の足で歩かないと何も生まれないということですね。一歩踏み出したなら、せめて螺旋を一回りするまでは歩き続けたいと思います。

足元から始まる神話もその一歩一歩の積み重ねなわけですから、失敗も受け入れて、胸張って歩いてみようと思いました。


そして、「ただ強度だけが世界をつくる」という言葉がグサリと胸に刺さります。

「実際に自分の足で歩く」からこそ、強度のある足跡になるのだということで、情報に踊らされてるうちは足跡もつかないのかも知れません。

そして、こちらのツイートも

このツイートを読んで、頑張りすぎるのは支配欲の表れなのかも知れないと思いました。そこの根っこのとこを見ないといけないような気がします。

そこではたと、だからこその床稽古なんだなとあらためて思いました。何度も行ったり来たりしながら、少しずつしか人はわからないのかも知れません。

写真は、向かい風が強くてなかなか着地できないパウル•クレーの天使の絵。

追記
ここで、本番の動画を見たところ、それなりの質は担保できてたという感じがあって、それはそれでよかったなと思います。

ただ、外から客観したものと、踊った当事者の主観視点での感覚の違いということはあるのだと思います。

自分の中の違和感は、やはり自分にとっては大きいものだけれど、それをことさら「失敗」というように、大袈裟に表現するのもどうしたものかということを感じました。

もっと、堂々と構えていてもいいのかも知れません。次に何かやる場合には、密かにリベンジしてやろうとは思いますけどね。(笑)

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