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お盆の原初舞踏の稽古でのこと

日曜日の原初舞踏定例稽古に参加して、一日経ちますが、今回はすぐに何かを書き残しておこうという気持ちになりませんでした。

その代わりにずっとマーラーやバーバーのアダージョなど、よく踊りで使う音楽を聴いていました。またはそれらに関連するような音楽をYouTubeで見つけたりして聴いていました。そして何気なく、この曲は使えるなとか、いつか使いたいなとか、思ってるんですね。

そして、オーム斉唱をひとりで繰り返したり、その中にライトボディー瞑想で使うチャクラの音を入れて、実際にチャクラに響かせてみたり、小さな筋肉を引き締めることで起こる波のようなエネルギーを身体の中で響かせて動かしてみたりして、遊んでいました。

音と振動を使うことで、瞑想の状態に入れる感じです。筋肉をしぼったり、ねじったりすることで、内側からの衝動が湧き上がってくるのと、ある意味同じようなことなのかも知れません。筋肉を絞ったり、捻ったりするのは踊りの中で時に使うのだけれど、そればかりに頼るのはあざといなと思い、このところなるべく使わないようにしていたのでした。

しかし、日曜日の稽古の中ではひさしぶりに自然とそのような動きになりました。そしてそこから溢れてくる喜びというか、うれしさというか、それはやはりとても感動的でありました。

それは床稽古でのことでしたが、いつものように落下して、深く落下して、横たわっているときには、もう立ち上がらなくてもいいやと思っていたかも知れません。それは稽古の前日にnote記事に書いたように、とても重たいと感じていた自分を発見したからだったんだろうと思います。

それでいつもであるなら、だんだんと起き上がる方向に意識を向け、少しずつ段階を踏みながら起き上がっていくのですが、昨日はそうはしなかったのです。とにかく気持ちのいい方に身体を動かしていき、足を伸ばしたり、ストレッチされる方向に回転したりしながら、気持ちいい方、気持ちいい方に少しずつ身体を回転させるような感覚で、動いていたら、すこしずつ起き上がる態勢になってきて、気がついたら座っていました。さらにそこからも同じような感じで、足の裏を床につける状態になっていて、おもしろいものだなと思ったのです。

それでそのまま立ち上がって、立ち上がった気持ちよさってあるなというのを感じながら、そのまま同じような感じで、気持ちいいと感じる方に向かって身体を動かしていこうと思ったのです。その流れの中で、自然に筋肉を絞ったり、捻ったりもしていて、そこから湧き上がってくるエネルギーを感じるのが本当にうれしくて、気がついたらうれし泣きをしそうでしたが、それをぐっと抑えてうれしさの濃度を内側で調節してみたりしていました。それがまた別の場所の飛び火して、そこから衝動が上がってきたりもして、とても幸せな時間を過ごしたなと思います。

今、振り返ってみても、この床稽古の中での一連の流れは何か大きな発見だったなと感じています。


そうそう、もうひとつ書き残しておきたいことがありました。それは最後の稽古でのこと。稽古場に入る所に着物が下げられていたのですが、裏側が稽古場の方に向けて下げられていました。着物の表と裏は文字通り、表の世界と裏の世界であり、表側は顕在意識の側であり、裏側は潜在意識の側であるという設定です。そう設定されることで、そこにさげられた着物は絶対的に意味のある境界になった訳です。

最初5人が出ましたが、僕は3番目にこの境界をくぐりました。着物に触れ、少しずつめくり上げていくと、だんだんと向こうの世界が見えてきて、そちらに足をすすめるときに、死の世界に足を踏み入れるということを思いました。布がさらりと下に落ち、完全に死の世界に入ったと思いました。着物の温かさを感じていたので、心なしか中の世界の方が、温かくて濃密な感じがしたのを覚えています。

その後、他の人がされるのを見取る側になりましたが、そのときに着物の下からいきなり手が伸びてきて、だんだんと着物があげられていくときに、ゾクゾクするものを感じました。手だけが見えていて、身体が見えないので、鏡の向こうから手だけが出てきて、ぬーっとこちらに入り込んできているような感じに見えたからです。

それが何回か続きます。ひとりが入り終わったら、しばらくしてまた手だけがぬーっと出てきて、鏡面が広がっていき、やがてばさりと着物が下に落ちると、またひとり増えているという感じでした。

手だけがぬーっと出てくるというイメージがあまりにリアルに感じられたので、今も目の前にあるカーテンから手が出てくるんじゃないかというような気持ちになったりもします。

出てきた人たちは円を描いて歩きながら、右手を上げて、降ろしてを繰り返しています。ゆっくりとゆっくりと歩きながら、右手の上げ下げに集中していることで、身体の中にいろんな衝動が起こっているようにも見え、その輪がとても有機的で意味があり、ひとりひとりが霊的な存在であることが感じられ、これこそがまさに盆踊りの起源なのではないかと思って見ていました。それはそれはすごく磁力のある、魅力的な空間がそこにありましたし、歩いている人たちがみな、個性的で、それでいて人間らしさがそぎ落とされて、いい意味で霊的な存在として、そこにおられるという感じがしました。

その盆踊りの情景が、とても強烈に印象に残りました。そして、自由に踊ると言うよりも、手を上げ下げするだけというような、決まりを設けることによって、むしろ自由は生まれるという、矛盾と言ってもいいかも知れませんが、それは本当にそうだということを思ったのでした。そしてたぶんそれは大事なことで、踊るということの鍵がそこにあるのかも知れません。


稽古のあと、秋田から来られた方が、自分で作られたスイカを持ってきてくださり、みなでスイカを食べながらのシェアタイムとなりました。これがおいしくて、面白くて、興味深い話がたくさん出てきて、いつもよりもとっぷりと話し込んだような気がします。

最後の踊りが盆踊りのようだったと話した訳ですが、その中で、秋田の西馬音内(にしもない)の盆踊りについての話が出てきたので、帰ってから調べてみましたら、とても興味深いです。記録のためにもここに動画貼っておきます。


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