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時代の閉塞感

小説家のエッセイを読んでいると現代日本社会の閉塞感に触れているものが目につく。だが個人的には特別に閉塞感を感じたことがないというか、何を今更というか、そんなの昔からじゃない?という気がしている。生まれたときから不況の時代に育っているからなのかもしれない。けれど巷のコメンテーター、特に年上のお姉さまがたのいう閉塞感というものについて、わたしなりに感じてみたいのである。
閉塞感の一例として挙げられていたのが飲食店での対応だ。店員さんにちょっと話しかけたり、非常に簡単なアレンジをコーヒーに加えるリクエストをすることが煙たがられる、それが閉塞感の現れらしい。
たぶん閉塞感とは画一的で、マニュアル通りのことをいうらしい。では置き去りにされているのは自由、気まぐれ、柔軟、あそびということか。
直近で閉塞感らしきものに出くわした。お盆休みのUターンラッシュでぎゅうぎゅう詰めの新幹線内で、座席からはみ出たおじいさんのバッグの紐に引っかかってスーツケースごと転んでしまった。わあわあとお爺さんが叫び近くのお姉さんが大丈夫ですかと声をかけてくれた。だが立ち上がるのを助けてくれた人はいなかった。まああまりにも冷静にすっくと立ってしまったのもあるけれど。きっとおじいさんもお姉さんも助けてあげたいという気持ちはあったのだろう。でも逆に迷惑なんじゃないか、何かマニュアル的なものに反しているんじゃないかと、心のままに体が動かなくなっているんだろう。
でもいいこともあった。通路に立っていると、スーツケースを荷棚にあげましょうかと青年がオファーしてくれた。手持ちの部分が手置きにちょうどいいので、ありがとうと断ったが、表情と声色でありがたさが伝わっただろうか。青年よどうか変なことをしたと後悔しないでほしい。


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