Swinging Chandelier:番外編-ミツノカギロヒ
盂蘭盆の夜、その橋の往来に提燈がかかる。連なる燈はゆるく弧を描いて、対岸の鳥居まで続く。
祭りの二日間の間橋は一般車が通行止めになり、午後のまだ早い時間から様々な催し物があるらしい。のだが、すでに日暮のそこに初めて踏み入れば、橋の入り口からぽつりぽつりと並ぶ夜店が、対岸に近づけば近づくほど密に燈をともしている。鳥居を越えた先に建てられた櫓は宵闇のなか燈に浮かび上がり、こだまして聴こえる太鼓囃子が盂蘭盆を告げる。
元々、知らない街だった。知らない土地の知らない社は、遠目に見ても橋の賑わいよりずっと静かに佇んで、それは本殿の傍に植えられた楠の大木が葉を繁らせているせいで屋根に影を作るから、そう感じただけかもしれないが。
知らない街の方が、気が楽だった。
川面にひらけた盂蘭盆の空の夕暮れは、ぐにゃりと曲がった樹脂のように橙や躑躅色、紫が劇的に混じり合って、わたしは微熱を帯びたような気持ちになる。
かろん、と下駄が鳴る。左右両側に提燈の赤が迎えた。川面を走る風のにおいがして、それは真昼の太陽に何時間も灼かれたアスファルトに心地よかった。
白木の下駄を鳴らしてわたしは歩く。浴衣を着たのはいつぶりだろう。もう袖を通すことはないだろうと思っていたが。綿麻の張りのある生成り地に、淡墨で水紋のように茎が伸びてその細い首からぼたりと、菖蒲が灰紫に滲んで描かれた浴衣。
寂れた商店街の、間口のすぐ向こうにうずたかく久留米絣や結城紬を積んであるような古着屋で、わたしはその浴衣を買ったのだった。
「どっから引っ張り出してきたのやら」
店の雑然さに半ば同化しつつある老店主は、ほとんど白髪の無精髭で笑った。あれは何年前だろう。
そうして知らない街の、知らない祭りに一人で来ている。
かろん、と下駄が鳴り、川面から上がってくる風が浴衣の身八つ口に抜けて袖が揺れる。
歩いていると、あいまいになっていくものがある。
並んだ夜店の暖簾、その極彩色に賑わう湿度の高い温度の中、かろん、かろん、と。
死んでいるもの、生きているもの、彼方と此方があいまいになるような目眩を呼ぶような、色と光と音と温度がある。
かろん。
光る輪を手首につけた子供たちが、肩上げをした浴衣に兵児帯を金魚の鰭のようにゆらして橋の上を走り過ぎ、すれ違いざまに風を感じる。
日没。
あれはいつだった。花火大会や夏祭りがニュースで流れているのがキッチンから見えた。
夏だね。と、わたしたちは笑った。わたしは夕食用のトマトを刻んでいた。
一緒にお祭りとか、行ってみたいな。
どちらがそんなことを言ったのか。キッチンに二人で並んでいた。
あれはどちらの家だったろう。夏だった。
いやそもそもそんなことを話しただろうか。元より二人してテレビにはさして興味をいだかない性質だったはずで、ああけれど確実なのは、わたしと「あの人」が一緒に夏祭りにでかけることは、ついぞ無いままだったということだ。
対岸までたどり着いたわたしは鳥居をくぐる。楠の大木の影が屋根にかかるこの社は、橋の夜店の賑わいに比べればよほど静かで暗く、そこに祀られているものの名前もわたしは知らなかった。知らない街の、知らない神さまの、知らない祭りの中にひとりでいる。
ついぞ行かないまま、結局「一緒に行こう」と言いあったかどうかさえ記憶はあいまいなまま、鳥居の向こうから来た道を振り返れば、櫓の最上段に太鼓囃子が陣取り、踊りの先導に皆々自然と円を描いて、それらを照らす提燈の明りは赤く、賑わいとざわめき、酒精と食べ物のにおいが入り混じる。
あいまいなまま、まるでその場にとらわれたかのような心地になって気づけば社の裏手に迷い込み、朱塗りの鳥居の先、小さなお稲荷さんの闇の中に足を掬われた、なんてことはなく。わたしはビールと焼き鳥を買ってベンチに座った。氷水の中で冷やされていたビールはまだ缶が濡れていて、店や自宅の冷蔵庫で冷やしたものを飲むよりはややぬるい。いつも焼き鳥は塩ばかり食べているくせに、タレしかない夜店のそれは甘みがあって、なるほどこれなら冷めても味は落ちにくいなとぼんやり考えた。
復路。
籤、りんご飴、輪投げ、水飴、たこ焼き、射的に綿菓子。お面……提燈の明りが、それぞれに染め抜いた夜店の暖簾をおびただしく浮かび上がらせて、橋の上は往く人も来る人も入り混じったまま、かろん、かろん、浴衣を着た若い二人連れ、射的にはしゃぐワンピースの女の人、光る輪を着けた子供がまた、走っていく。誰かが手を離した風船が舞い上がり、暗く光る川の上を飛んでいく。お面をかぶった親子連れ、鉄板に山盛りになった焼きそば、毒々しいほど鮮やかなシロップをかけた氷。賑わい、発電機の音。
あいまいな中にまた漂うようにして、かろん、白木の下駄が鳴り……川面から上がってくる風が身八つ口を通って首に抜ければ橋の中ほどあたり、提燈の明りに浮かび上がっていたのは金魚すくいの屋台、いとけない大きさの金魚たちが平桶にたくさん放たれ、それらはポイから逃げたいのか桶から逃げたいのか、せわしなくちらちらと鰭や口を動かして、朱や黒に水面がゆらめいていた。
浅い琥珀色のシャツを羽織った男が金魚をとっていた。洋装なのに二枚歯の下駄――これもまた男の体躯には大きいような――を履いて足元が悪そうなのに、しゃがんだその場で下駄をカコカコいわせながらうまい具合にバランスをとっていた。男は器用に三匹ほど金魚をすくい、まだポイが破れなうちに立ち上がった。目が合った。男はにこりと笑った。
「金魚、要る?」
男が差し出したプラスチックの椀には朱色の和金が二匹、黒い出目金が一匹いた。ずい、と差し出した時にちゃぷりと椀の水が跳ねた。男はまるで、わたしとずっと前からの知り合いかのような顔をしていた。
「要らない」
太鼓囃子に夜店の喧騒が、混ざって耳に届く。
「金魚、きらい?」
「すぐ死ぬから、いや」
「そうだね」
男は笑った。少し長い髪が、提灯の明りに濡れていた。
「まあ、戻してやってもそう変わらないけれど」
男は金魚たちを平桶に放した。椀にいた三匹はあっという間に水面にゆらめく朱と黒に混じって、どれを捕まえていたのかもう分からない。
わたしはそのまま歩き出した。うしろに誰かの呼ぶ声がしたような、それも祭りの熱気でもうわからない。もしかしたらそんな男には会わなかったのかもしれない。
一人でぶらぶらとしてよくわからない幽かなものにとらわれたまま、彼方と此方をあいまいに行き来して彷徨う、とは限らず。
復路を歩み続ければ、明日は会社の新しい企画の顔合わせのミーティングがあるということを思い出す。転職してまだ長いわけではないけれど、通勤ルートももう完全に頭に入って、多少の列車の遅延や運転見合わせにもまごつかなくなった。会社の近くのコンビニやコーヒーショップの場所も覚えたし、新人としてはまあなじんできてきっと多分、うまくいっている。
元来た橋の入り口に立てば太鼓囃子も夜店の賑わいもぼやけ、足の親指と人差し指の間の、鼻緒のところが少し擦れていた。夜といえど二十一世紀の真夏、汗ばんだ背中に浴衣の生地が張り付いているのがわかる。
かろん、かろん、と歩いて、振り返ってみる。
盂蘭盆の夜、その橋の往来に提燈がかかる。連なる燈はゆるく弧を描いて、対岸の鳥居まで続く。夜店の賑わい、湿度のある温度に太鼓囃子が響き、橋を往き来する人々、まるで彼方と此方があいまいなったように、すべてが提燈の赤色に浮かび上がり、川面から風が上がって吹き抜ける。
明日にはもうこの橋は、祭りの熱気など素知らぬ風な、よそよそしいほど暑くて静かな夏の日常に溶けて戻る。この宵こそが真夏の白昼夢だったかのように、どの記憶の中でも。いや、そんな記憶があるかももうわからない。
ただ、知らない街の、知らない祭りに一人で来ていた。
かろん、白木の下駄を鳴らし、菖蒲の袖をゆらした。
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