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日々を生きることは手紙の下書きを集めているようなことだと思った

『先生あのね』

小学生になったら、こんな書き出しで
にっきを書くように指示を得た

そこから毎日せっせと書き続けたのを
今でもおぼえている

机上で何を書こうかと思案して
鉛筆を舐めるというよりも
心のなかで『先生あのね』と語りかけて
いるのを書き留めるだけだったから
比較的ことばは淀みなく出てきたと
記憶している
どちらかというと、きたない字で書きたくなくて
心の中の朗読のスピードに、書くという動作が追いつかずに
何となく気持ちがもじゃもじゃしたのだった
書きたいこと忘れちゃうよ、と



いつしか『先生あのね』の書き出しは
もうやめましょう、と指示があって
日記は誰のために、語りかけているのか
分からなくなって、それはどうやら
自分自身に向けて書いているのだと気づいた

それでも読んでもらうことを前提にしていたから、
何となく書いてはいけないことの分別や、
こう書いたら褒められるかな打算も含まれていき
『先生あのね』とお話を聞いてもらうように
書いていた純粋さは消えてしまったかもしれない

実際、先生が赤いペンで書いてくださった
お返事はとても楽しみで、帰ってきたノートを
開く時はドキドキした
読んだことをあらわすだけのサインやはなまる
だけのこともあったけれど、ひと言でも返事が
書いてあった時の嬉しさといったらなかった

その時に書いてもらったことばのいくつかは
未だに筆跡と共に覚えている



子ども時代の感覚や癖は残っているもので
noteにこうして書いている、たんなるにっきや
お手紙も語りかける音がそのまま指によって
写されていく

たまに書く小説ですらプロットもなく思考の
垂れ流しによるものであるから、そりゃあ私は
クリエイターになどなれるわけはない
作品に昇華するには努力と推敲の積み重ねが必要だからだ

それ故に、
こうして話が逸れてしまうわけだけれど…
そう、戻すと
自分自身や特定の相手、あるいは何らかの
ペルソナを浮かべて語りかけているのだと思う

大人になった今はもう、思考と写す速度のズレに
もじゃもじゃすることもなくなってタイピングであっても、
ペンであっても大丈夫
ペンがインクを置いていく様を見ながら
次のことばを見ている瞬間はとても好きだ

今、おふたかたに向けておてがみを準備しているけれど
ぼんやりと何を書こうかというのはある気がする
けれど、それは自分自身が便箋の一行目に
『こんにちは』と書き始めたらほとんど自動筆記
のようになって、封をする前に読み返して
自分自身でも、こんなことが書きたかったのね
と少し楽しむのだと思う

書くネタがないからネタを集める
ということはしていないし、ネタという感覚が
そもそも違うのかもしれない

『先生あのね』と語りかけていたあの頃と
おんなじように、感じたことや考えたことを
そのまま話したいから話す感覚なのかなあと思う

それが読み手にとって面白いのかだとか
技術的にどうなのかとか言われるとちょっぴり
痛いところではあるけれど
ネタを探すみたいにして疲れちゃったり
大きなトピックに目を奪われて、小さなことに
気づかなくなっちゃうのは私らしくないから
まあ良いのかなあと思う

昨日も通りを歩く人のその場限りの小さな法則に
気づいた時はとっても胸が躍ったもの
それはね…


たんなるにっき(その44)

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