センスの哲学

無から有は生み出せない。ある程度出来上がっているものを組み合わせて作るのが好きだ。もともと持っている技術と性質まで把握している材料を組み合わせる。
昨日は有給とって仕事が休みだったが、急に思いついて、作っていた。布を縫い合わせて、見てみたい形があった。小さいもので、ミシンがあれば30分で終わる作業だが、手縫いでしたため2時間かかった。作業中は終わるまでご飯を食べたくない。出来上がったあとは空腹で、倒れ込むように韓国のインスタントラーメンを食べたから、血糖値スパイクでガツンと眠気に襲われ、そのあとずっと寝ていた。
何か作るとバランスが崩れるの図。常時体を見張って、健康な恒常性を保とうとしているのに、没頭すると途切れる。それが怖いから、あまり没頭したくない。何か作ることは没頭しないとありえない。片手間でできるほどに慣れていないから。予測が簡単にできる未来に走るのは疲れにくい。状況が予想した通りになって欲しい。慣れないことをする時は、普段使わない細いシナプスにも脳の電気信号を走らせ、持てるアイデアを総動員する。普段使わない筋肉を使うから、疲れる。
作るのは身投げみたいな行為だ。勢いで始めた。あれこれ考えていたらできない。創作者に躁鬱傾向な人が多いのは感覚的に納得できる。身投げ行為だから。躁鬱が創作の先にある場合でも。躁鬱は時間の感覚がおかしくなる。時間のリズムに沿った自己保存を第一にしていたら、身投げできない。そのあとのご飯のことを考えるし、部屋を綺麗に保ちたいと考える。
子どもの頃、鬼ごっこが怖かった。追いかけられる状況が嫌だった。嫌だからそうならないよう状況を見張る。怖くて目を離したくない。そのスタンスが今も続いている。時間に追いかけられたくない。いつか捕まってしまう恐怖を感じながら過ごしたくない。いつまでも、無限に、夜が長ければいいのに。制限がなければいいのに。
私はよく、漫画が面白くて、見ている動画が面白くて、徹夜してしまうことがあるが、それでも没頭しているわけではない。渦中にいる間、時差ぼけを怖がっていたりする。
見張りはずっといる。

肯定的な言葉で出力を網羅してみるというのはセンスが必要だ。いつも言い方が肯定的な人がいる。
まず思ったことを捕まえる作業はどこで行われるのだろう。生じた時点での気持ちの捕まえ方を忘れてしまうのではないか、もしくは、決まった捕まえ方ばかりしてしまうようになった結果なのではないか。
それとは別次元の話としたいが、あらゆる出来事をニューロダイバーシティ的な語彙に変換する言い方をぐにゃぐにゃと出力したい欲がある。ひいてはインプットしたい。

センスの哲学を読んでいるから、きっと文体が乗り移っている。引用しながら読む。引用の段落にはページ数を書いた。ページを見失ったのもある。

鑑賞サイドにいると多くの人は意味ばかりに気が行ってしまう。しかし、ものを作る時には、意味が生じる前の、ただ材料を集めて組み立てる、という「意味が生まれる前の段階」に目を向けることになる。 (ページ不明)

芸術家にはよく子供のような自由があると言われますが、それは、記号化する以前の自由を持っている、そこに戻ることができるということでしょう。
インテリアの話ですが、ニセ高級感というのも記号にとらわれているわけです。つまり意味にとらわれている。アンティーク風だけど本当のアンティークではないテーブルというのは「アンティーク風」という意味がメインなのであって、そのテーブル自体が十分に肯定されていない。本当はアンティークのテーブルが欲しいけれど、その代わりとして存在している。だからそのテーブルは意味としては「半分だけの存在」みたいなもの。だったら、同じ安価なものでもそれ自体を肯定できるものを買った方がいいのでは、と思います。42p

「モデルに合わせようとして合わせられない」のが悪い意味でのズレで、それがセンスが悪いと見なされる。だったらそもそもモデルに沿わせることから降りてしまい、自分の積極性を肯定する「ヘタウマ」でもいいじゃないか。(ページ不明)

音楽であれ、美術であれ、家具のレイアウトであれ、料理のうまさであれ、そのリズムの「多次元的な=マルチトラックでの配置」が意識できることセンスであり、そしてその配置の面白さがセンスがいいということになる。60p

物事を意味的にどうこうするというわけではなく、そこから離れて、凸と凹の問題、つまりリズムの問題として「ただどう並べているか」という意識でものに関わり始めたら、もうそれだけで、最小限の一歩としてセンスは良くなっていると言いたいと思います。
それだけで、何かのモデル=意味を目指して、それが成功する=上手い、不完全になる=下手というゲームから脱却していて、別のゲームを始めているからです。61p

ただそれは原理的に言えばのことで、そこまで広く受け止めてくれる人には届くかもしれないが・・・・という話です。なんらかのルールで秩序づけられた並びでなければ、絵として、音楽として、文学として認めないという態度がマジョリティです。それは厳然たる事実だと思いますが、作り手はそれを意識してもいいし、無視してもいい。また、意識するというのを分けると、強く意識してもいいし、多少意識するのでもいい。(ページ不明)

鑑賞と制作の両サイドで芸術を楽しめるようになる、もしくは芸術的なアプローチで生活を捉えるという時に、核心的なのは「それはなんなのか」「それはどういう意味なのか」から離れて、ものそれ自体の面白さをみる、つまり意味を脇に置いてリズムに感覚を届かせることです。74p

リズムに感覚を届かせるとはどういうことだろうか。

リズム=ただの形、色、響き、は脱意味的ですが、そこに注目する見方を「フォーマリズム」と言います。(ページ不明)

なにをどう並べてもつながりうるし、すべてはつながり方の設定次第なのだと、気分を最大限に開放していただきたい。その上で、どのように並べてもいいという最大限の広さから、面白い並びにするために、「制約をかけていく」という方向で考えてみましょう。166p

文章を書き写す。その動きをするときに、世界をせっかちに捉えているのがわかる。せっかちをやめるとうまく最初からそっくりコピーすることができる気がする。せっかちというのはつまり、経験に新体験を沿わせようとする働きだ。大体肉が落ちている。結論しか受け取れていない。肉を豊かに付けること、しかも付けることに意味が生まれて、文章が上手いとはこういうことをいうのだなと思った。せっかちでも置いて進む。その姿勢を選ぶのは私が他人の評価より、自分の満足に価値を置いているからそうなるのだと思う。もうちょっと他人の評価を気にする人間であれば、日記の内容も面白く書こうとするのだろうが、自己満足が1番大事。それでも受け取る側は意味がわからなくとも何かしらリズムを補うのだと思う。どう並べてあっても人間はそこにリズムを見出そうとする。

ジャズの音を我が物としたい。音を自己表現として持つにはどんな遊びがあればいいのか。耳コピの遊びか、指の練習の遊びか。どう遊べばもっと大きな遊びに行けるのかを考える。

千葉さんの言っていることがよくわかる。坂口恭平さんをリスペクトしているのも伝わってくる。何者かを目指さない、正解の土俵から降りて、ただ面白がることを私はしている。私は面白いけれど、他人に受けいれられるかは別だ

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