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ありのすさび(いもうと)

あねへ

大根のトマト煮って美味しいんだ!
自分に合わないものを無理して演じる、の例としてトマト煮を上げてみましたが、難なくこなすのね。大根ごめん、君を軽んじていたよ。そのうえフライにもなれるとは、どこまでもポテンシャルが高い。何でもできちゃうね、大根。

「ありのままの私で愛されたい、なんて、泥のついた大根をそのまま食べてほしいと思うようなこと。自らを磨いてちゃんと料理なさい。」
前々回から続く美輪さんの名言ですが、この解答にはもちろん相談があって、確か「ありのままの私を愛してくれる男性がいません」とか何とか、だったと思います。

私が美輪さんの言葉の中に見たのは、人目を気にしなさい、ということではもちろんなくて、誰かからの愛情をただ黙って待つのではなく、また「愛されたい」を相手に身勝手に一方的に押し付けない、ということ。そうしないために、人間性を磨け、ということ。
「こんな私を愛してくれる誰か」を求めるのではなく、「私とはこういう人間です」を差し出せるようになりなさい、ということ、でしょうか。

あねが言うように、私たちが生まれたときから備えた「ありのまま」は社会に適応しようともがくうちに歪み、見失われる。
相談者である彼女が言う「ありのまま」は、自分の欠点にばかり目をやって、尊び誇るべきものを見失った現状から出たもので、美輪さんはその状態にとどまるな、磨け、と諭したのではないかと思うのです。
「ありのすさび」という言葉がある。生きているのに慣れていいかげんに過ごすこと、なおざりに暮らすこと。「遊び」とも「荒び」とも書く。
いい加減さや、歪みに慣れてしまったままでは、いけないのね。
失われた自分は自分の中に発見され、また美しいもの良いものに出会い、それに焦がれる気持ちが向上心となる。そうして自分を磨いて手に入れるものは、決して自分自身を飾ることでも偽ることでもない、また新しいありのまま、あるがまま。

そして、自らを磨いて料理することができれば、それを誰に差し出すかを自分で選べるじゃない?「愛される」を求めるより、「愛する」を主体にできるな、とも思う。私の解釈はそんな感じです。

「人付き合いは腹6分目」、いい言葉。
そしてちょっぴり意外でもありました。私は、あねは誰に対しても全力で「話せばわかる」「理解してみせる」というようなスタンスで生きているのかと思っていたので……。長年姉妹をやっていても、驚きも発見もあるものですね。

父も「自分を知る」機会を何度も経たのだと思うけれど、それがどんな瞬間だったか、どんな出会いだったか、父の自己認識はどんなものだったのかをとても知りたい。自分のことをどんなふうに思っていたんだろう。娘には言えないかしら。
「あるときはありのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」(源氏物語に引用されてる、確か。手元に原典がないので確認できなくてごめん)とは私のありのままの本音ながら、あんなに反抗しておいて勝手だわ、とも思います。

https://www.tokugawa-art-museum.jp/exhibits/planned/2017/1112/post-4/


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