見出し画像

高山なおみさんとお話したこと(あね)

いもうとへ

札幌はきっとずいぶんと涼しくなったのでは、と思います。東京も今週から秋の気配が感じられるようになりました。

異常気象。ちちは地球の長い歴史を考えたら、異常だなんて言えない、と言っていた。でもちちが他界したのはもう15年も前。やっぱり変わってきてるんじゃないかしら。北海道はエアコンがないし、ゴキブリはいない。これも過去のことになるのかな。

人はみな馴れぬ齢を生きている。

確かに、そうだねぇ。私の場合、結婚する前は微調整もきいたし、失うものもなく前のめりで生きていたと思うけれど、家庭を持ってからは、ああすればよかったの後悔ばかり!失いたくないもの、守りたいものが増えたのだなぁと思う。それにしても、何事も経験しなければわからないとはいえ、先達はあらまほしきことかな、と、その度に思う。情報を集めて、熟慮して行動することが、まだまだできません。馴れぬ齢なもので。


さて、今回はずっとあなたに伝えようと思っていたこと、この夏に高山なおみさんにお会いしたことを書こうと思います。

画像1


8月の下旬に、吉祥寺のキチムにて、高山なおみさんの絵本「それから、それから」の発行記念イベントがありました。

初めてお会いした高山さんは、ちょい膝下丈の黒のコットンかリネンのノースリーブのワンピースに、ソックスにスニーカーというスタイルで、それがとってもお似合いだった。まるで、皮付きの野菜が、カゴにがさっと盛られていて、その美しさに気づかされるような感じ。まさに、高山さんの料理そのものという印象を受けたよ。

そして冒頭のお話の中で、高山さんはもう涙目でした。

「新幹線に乗ってきました。新幹線は消毒液の匂いがして、人も少なく、誰もおしゃべりをしていない安全地帯でした。久しぶりの東京で、中央線に乗ると、1人ずつ離れて座り、みんなマスクをしていました。ショックでした…。」

言うまでもなく、コロナ禍で変化した生活の話。自分の周りの日常の変化には、とまどいつつも慣れていくしかないけれど、昔住んでいた場所の変化は急激なものとして感じられたのだなと思う。

そんな、純粋な高山さんを見ていて、ああ泣いてもいいんだな、って思った。大人でも、講演者の立場でも、泣いてもいいんだって。心がすっと軽くなった。そして私も泣きそうだった。

この時、いつも私の心の中には病気の三男のことがあるんだなって気づいた。そうではないように生活しているつもりだけれど、素直なものや美しいものに触れると、閉められていた扉がふいに開く。高校で、合唱部の演奏を聴いた時も涙が止まらなかったっけ。

高山さんのお話で印象的だったことを要約して紹介するね。

4歳でも言葉が出なかったけれど、困らなかった。双子のみっちゃん(お兄さん)がいたおかげで、自分はしゃべる必要がなかったし、人と物の違いはなかった。どもるどだっく、はその頃の話。この世には一体感があって、なんでいい世界だろうと思っていた。 
「あいさつをする」ことは変だと感じていた。嘘をついていて、言葉と、自分の中身が合わさらないと。(言葉が形骸化している、と私はとりました)

画像2

高山さんは、それこそケストナーのご指摘には当てはまらない、子どもの頃の感性をそのまま持ち続けている方だと思う。「どもるどだっく」の絵本の話のこと、自分の一生の宿題だと話されていた。

どもる、吃音の人たちのきもち、発語が遅かった子どもたちの内面を代弁することが、表現者としての高山さんに与えられた使命なのだとご本人も感じているんじゃないかな。吃音の子どもたち、喋らない子どもたちにも内言語はたくさんあるけれど、それに似合う言葉を探すことは難しい。言葉にすると、気持ちとどんどん離れてしまう、ということだと思う。以前にも話した、Oくんの世界と似ている気がする。4歳のころが、1番幸せだったと話してくれたOくん。やはり、この世はなんていい世界なんだろう、って思っていたんじゃないかな。

日々ごはんの読者から、日常の大切さを教えられましたという感想をいただくのですが、わたしはふつうの暮らしができないのです。すぐ新しいものがほしくなる、人と一緒にいられない。夫とも10年くらいギクシャクしていました。

高山さんがスイセイさんと離れて神戸で一人暮らしをしているのはあなたも知っていたと思うけれど、それがいわゆる別居、という一言で片付けられるものではなかったのだろうね。スイセイさんは間違いなくベストパートナーなのだろうけれど、スイセイさんから離れることが、また高山なおみというひとの人生の新たな扉を開くことだったのじゃないかな。

神戸のアパートを下見に行った時、そこから見えた景色が、何十年も前から繰り返し見る夢の風景でした。その後の夢の中に竜が出てきて、海から山の方へ(アパートは六甲山の方だったと思う)竜が抜けて行って、ここに住んでよいか調べられたのだと思いました。わたしはここでいいんだな、と引越しを決めました。
それから、それから」は、七夕の大雨の時に出来た、夢の中の歌の本です。女の人が、受胎する瞬間の歌です。

画像3

私は高山さんのお話を、音楽を聴くように楽しみました。「それから、それから」を音読する高山さんは、足を広げて立って、大地を踏み締めて、声を出されていた。なんてかわいらしい…。吉永小百合さんのそれとは違いますよ!これから、高山さんの本を読むたびに、この姿を思い出すんだろうなぁと思った。

そして、私の双子の子どものことや、Oくんのことをどうしても伝えたくなったの。どうしても。高山さんの姿が見えなかったので、画家の中野さんと、お友達の川原さん(日々ごはんにもよく出てきます)に、お手紙を書きたいのだけれどどこに書けばよいでしょう?とお聞きしたところ、ふくう食堂にメールすれば全部目を通していると言っていましたよ、と教えてもらった。それで帰ろうとしたら、階段の下から、中野さんが高山さんに私を指差して話してくれているのを見つけたので、慌てて降りました。すると高山さんが私に近づいて話しかけてくれたので、ご挨拶をした瞬間、わたしはもう涙が止まらなくなりました。高山さんは、「座りましょう」と言って、隣にいてくれました。

きつく閉めてあったはずの線が開いて、ぽろぽろこぼれる涙をこらえながら、自己紹介をしたのだけど、料理家さんに向かって、家庭科の教員やってます、なんて言ってしまった。いいじゃない!って言っていただいて、恥ずかしい。。肩書きを探したつもりだったけれど、そんなこと言う必要はなかったな。それから少しOくんのことを話したけれど、なんだかまとまらなくて、きちんと思いを伝えられなかった。なので、メールをしますと言った。そしたら名前を聞いてくれて、私の名前をゆっくり、復唱してくださった。それも、とても高山さんらしかった。

そして私はメールにて、Oくんのことをや双子のことをお話し、Oくんについて書いたnoteも添付しました。

高山さんから後日返事が届き、「いもうとさんとの往復書簡を読みました、いい家族に囲まれていますね」と言ってくださったよ。そして、こうも。

双子の小さな兄弟の、体の弱い子のこと。
ほんとうに、たいへんなこと。
『ふたごのかがみ ピカルとヒカラ』という絵本を思い出しました。
今年の4月に出しました。
長い間ぬくめていたお話です。

ぜひ、読んでみてください。

ひと夏の、忘れられない思い出でした。

また!母ちゃんがんばるわ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?