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女性が出産・育児とやりたいことを両立できる世の中に。 ICORE創業の想い

「男性として女性の背中を押す仕事がしたい。」
僕が自然とそんな考えに至ったのは、働く女性に対する想いが強かったから。

「なんで男性ながら、女性向けスクールを経営しているの?」
よく投げかけられるこの質問に関して、自分の人生を重ねながら綴りたいと思います。

安藤 大嗣という人間の根っこ


僕は群馬県伊勢崎市という、田んぼと川と強風が特徴的な場所で3人兄弟の長男として育ちました。

歳の近い弟2人と毎日泥だらけになって遊び、よく笑って、よく寝る子で、
父はサラリーマン、母はパート、田舎のごくごく平凡な家庭で育ちました。

「お兄ちゃんの言うことを聞きなさい」と育てられた我が家では
長男の僕が全ての基準となり、気づけば人一倍、正義感と責任感が強い真面目な人間に育ったように思います。

正義感と真面目さが働いてか、小学校・中学校と毎回学級委員をつとめ、運動も勉強も遊びも全力投球。真面目で完璧主義だったことが影響し、通知表はいつも5。

「みんなもやればできるのに、なんで一生懸命やらないんだろう」

そんなふうに感じていた僕は、自分にも他人にもすごく厳しい人間だったのかもしれません。

中学校では相変わらずの成績に加え、クラブチームで幼稚園から続けていたラグビーは全国大会出場、学校の部活の陸上部では県優勝、助っ人で手伝っていた合唱部では東日本大会出場。

高校受験は満点の通知表と小論文入試で、群馬県内トップの進学校に周りより一足先にするりと合格しました。


突然訪れた人生フルリセット


ここまで聞くと、絵に描いたハッピーストーリーのようですが、
ここから僕の人生は急に暗転します。

高校入学後、唯一の経験者としてたくさん同級生を勧誘したラグビー部。

入学から半年が過ぎようとしたある日、
僕が直接誘って入部を決めた友人が、試合中に倒れ、目の前で植物状態になりました。

急に泡を吹き、死後硬直が始まり石のようになる友人。
緊急搬送され、それを見て崩れ落ちるご両親を目の前で見ました。

事故とはいえ、たくさん愛を注がれて育った1人の人間の人生を、
自分の手で大きく変えてしまったという生々しい感覚と、
練習中も親身に寄り添えていなかった後悔に苛まれました。

事故をきっかけにほどんどの部員が辞め、無期限の試合欠場。
僕はずっと続けてきた、ラグビーという選択肢を突然失いました。


また、ほとんど同時期。
母から急に「話がある」と突然の呼び出し。

「実はお父さんと離婚したんだ」

思いがけもしない報告を1人で受けました。

3人の子供を引き受けることになった母の不安と覚悟に滲んだ表情と
初めて見た涙する祖父母の姿、そして、家を出ていく父の姿。

一瞬にして幸せだと思っていた自分の家族が嘘だったかのように消えてなくなりました。


楽しみにしていた高校生活が、僕にとっての暗黒時代となりました。

学校にいっても部活はできず、
家に帰っても弟の前で頼もしいお兄ちゃんでいなきゃと振る舞う日々。

結果、僕は精神的に病み、高校生にして500円玉ハゲができました。
沈黙になるとひどい腹痛に襲われ、どんなに勉強してもテストになると頭の中は真っ白。成績もどん底になりました。

大好きだったラグビーも、家族も、勉強も、一瞬にして崩れ去り、そのまま大学受験にも失敗しました。


積み上げてきたと思った全てのものを失う体験の連続でした。



自分ではない誰かの役に立ちたい


結局大学受験に失敗して浪人が決まり、逃げるように群馬を飛び出し、
岐阜の祖母宅から名古屋の予備校に通うことになりました。

気づけば人生で初めて、誰ひとり知り合いのいない土地。
それまで背負ってきた人生を全て真っさらにしたかった。

不安でいっぱいの気持ちで始まった浪人生活でしたが、

そんな不安な感情は取り越し苦労になりました。

見ず知らずの土地から出てきた僕にも優しく声をかけ、一緒にいてくれる友達に恵まれたからです。

「ああ、僕はこれまでの人生、なんて自分ばかり見て生きてきたんだ」

人生に大切なのは「人より優れていること」ではなく「人に優しくいること」かもしれない。

辛かった経験や自分だからできることを、
自分ではなく誰かの幸せのために使うこと。
そして、誰かの笑顔の先に自分の幸せをみること。

自分で自分を満たすではなく、
自分と自分との合間にいてくれる誰かによって人生は豊かになるんだ。

この頃から「自分のため」ではなく「誰かの役に立ちたい」、
いつか自分の名前で人を幸せにできる仕事がしたいなあ。

こんなことを思い描くようになります。


母の癌を通して見た女性の人生


結局、新天地で友人にも恵まれ、
名古屋大学の教育学部と滑り止めの同志社大学の法学部に合格した僕。

進路を迷う僕に
「たいしの行きたい道を選びなさい」と
お金がかからない道ではなく、行きたい道を選択させてくれたのは他でもない母でした。

後に続く弟2人もいながら浪人/私立/下宿という最もお金のかかる選択はきっと大変だっただろうなぁと、今振り返っても思います。

「なんでそんな選択をさせてくれるの?」と母に尋ねると

「お母さんは昔、県内1番の進学校に進みながらも、父が借金を抱えたことと女性だからという理由で進学を諦めさせられた経験があるの。」

「周りは当たり前のように大学に進学する中、お母さんには地元の専門学校という選択肢しかなかったんだ。」

その先も母の過去を聞くと壮絶なもので、
母が身を粉にして働く理由はそこから来るものでした。

"何としても3人の息子には自分の思い描く人生を生きてほしい"

朝は誰よりも早起きして誰よりも立派な手作り弁当を持たせて働きに出て、
夜は夕飯を作ったのちにまた働きに出る生活。
母が寝ている姿とゆっくりご飯を食べている姿は僕の記憶にありません。



母のおかげで、僕は無事に大学を卒業し、KIRINに新卒入社しました。

そして入社して1年が過ぎた頃、珍しく仕事中に母から突然の電話。

「たいし、、お母さん死んじゃうかもしれない…」
という嗚咽まみれた弱々しい声。

母はまだ40代という若さで癌になりました。

人生で初めて消えいりそうな母の声を聞いたあの日のことは、僕の脳裏から消えることはないでしょう。


ICORE創業の想い

長い闘病生活の果てに、なんとか一命をとりとめた母ですが、
ずっと睡眠導入剤含め、たくさん薬を服用しながら無理して働いていたことが大きな原因でした。


もともと立派なキャリア築いていけるはずの女性が

女性だからという理由でキャリアを諦め
女性だからという理由で子育てを一任し
女性だからという理由で仕事と家事を両立し
女性だからという理由で就く仕事もなく

自分という人生を犠牲にして、苦しんでいる。

世の中を見ると母の話は少し極端ですが、
女性だからという呪縛に縛られて何かを諦めざるを得ない状況は
決して母だけではないと思います。


日本においては
まだまだそこら中に「女性だから」という文化が残っている反面、
「女性活躍推進」という言葉にあるように女性への期待も大きく存在します。

でも、女性だけにこの負荷を負わせるのはあまりに酷ではないでしょうか?

女性だけではなく、男性と手を取り合いながら
共に幸せを実現できる世の中を創りたい。

誰かが性別によって自己実現を妨げられる世の中を
1人の男性として変えていきたい。

それが、
女性だけではなく男性も共に代表としてICOREを創業した理由です。


ICOREの描く未来が形になる日には
女性も、そして男性も、
もっともっと生きやすい世界がそこにあると信じて。

私から主体性を持って、この世界を変えていきたい。

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