『推し燃ゆ』を読んだ時の話

キャッチーなタイトルで「推し」をもつ全国の皆さんの関心を引き、芥川賞を受賞し本屋大賞も受賞した本作品をなぜすぐ読まなかったかというと私に「推し」がいないからなのだが、ベテラン国語教師である同僚の先輩が『くるまの娘』の単行本をくれて、読んでみたところ圧倒されたので、本作も読むに至った。結果、この話の主題は別に「推し」にまつわるあれこれ、というものではない気がした。

自分に関心のあることしかできない主人公。主人公に「ちゃんと」させたい周囲の人。当然主人公にそんなもの求めない存在である「推し」。
この人たちが接しながら交わらずに物語は進む。

多分主人公には発達障害がある。私と同じ特性を持っている。緻密な描写でわかる。でもこれは「発達障害がある、生きづらい女性の物語」と喧伝されることはなかった。もともと「「推し」をもつ女性にまつわる話」として全国に広まったからだ。そして、健常に生きている人たちがあまりにも、この衝撃的な筆力で書かれた作品を、ただ「「推し」をもつ女性にまつわる話」として読み終えていることに、私はブクログを読み流しながら驚いた。

『くるまの娘』もそうだった。
血のつながった家族。一人の大人。その「ままならなさ」を、克明に描き出している。でもあまり、そういう視点では受け止められていないように感じる。

私は、この二作品を、胸が抉られる思いで読んだ。辛かったのではない。嬉しかった。そう、そうなんだよ、と何度も呟いた。私の見ている世界を、事象を、描き出してくれる人がこの世界にいるのだと思った。同時に、まったく違う世界の見え方をしている人と、こうもわかり合えないのだと知った。

宇佐見りんさんの編集者が、「この人(宇佐見さん)が年を取って、どんなものを書くのか知りたいから長生きしたい」みたいなことを言っている記事を読んだ。

私もそう思っている。

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