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「教養」って一体どうなの?


よく「教養は身につけるべき」と言われる。だが最近になってはそのカウンターパンチなのか、「教養は人をダメにする」とも言われるようになってきている。実際の所どうなのか、私の考えを簡単に述べたい。

「教養は身につけるべきか」という問いに「はい」か「いいえ」の二つの答えしかない場合、「はい」と私は答える。教養についてツイッターで誰かが「自分の人生とは無縁な、新しい世界を垣間見ること」という言葉があった。これは全くその通りである。文学やや哲学をひたすら読んできた私も、それがなかったら無縁だった世界が読むことによって広がり、自分の豊かさについて大いに寄与してくれた。

 だが問題なのは教養が神聖視されてしまうきらいがある。教養を身につけた自分は偉い、ということで他者を見下してしまう傾向が出てくる。これは私自身にも覚えがあるが、教養を身につけ始める、というのはつまりそれまで教養とは無縁でつるんでいた友人とかもやはり教養とは無縁だった。なのでその新しい自分がすごいと思い始めてしまうことだろう。
 しかしながら、教養は身につければ絶対無条件に正しいとは限らないと思っている。教養を身につけたことにより、その教養にばかり捉われ逆に視野が狭くなった人もいる。また他人を見下すようになりそれが自分に跳ね返ってきて逆に苦しむようになる。
 教養は確かに「レベルが高い」ものかもしれない。だがレベルが高ければそれは絶対無条件に正しいわけではない。レベルの高いことを身につけたからといって、レベルの低いもの、日常的なものを省みなくていいことにはならない。レベルの高いものは、もっと低いレベルのものもあってこそ初めて本当の意味で活かされるようになると私は考えている。

そして教養の最大の欠点、というか落とし穴は何かと聞かれると、「リスクがない」ということにある。危険がない。痛い目を見ることがない。それはいいことでもある。だが私の経験として、人間が本当に成長することがあるのはリスクを取ることである。大小の差はともかく、勇気を出して危ない橋を渡ることにある。そして本当の意味で何かを獲得できるのはそれを達成してこそにあると思う。部屋にこもってどれだけ教養や本を読んでも何かを達成されるわけではない別にこの営みそのものを否定しているわけではない。ただ人生で本当の意味で何かを成し遂げようと思ったら、行動し勝負をしなければならないのだ。

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