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高橋「先生」

今年に入ってから、「高橋先生」と呼ばれることが多くなった。私は別に学校で教えているわけではなく、地位や利害が絡まない状態でそう言われるようになったから、単に形式的な面でも打算的な面でもなく、本心からそう呼んでくれているのだろう、有難いことである。

私は古典の翻訳を出し始めて二十冊以上になっている。自分で言うもなんだが、さすがに私の業績的な面でも評価されてきているのを感じる。なんだかんだ、褒められたり、もてなしを受けたりするのはいい気分である。そのことは正直に認るべきだろう。

だが他方で、名声というのも結局のところ人生、私のやっている活動のおまけなのだろうということもまたいよいよ強く実感するようになった。私の今の人生の幸福は、翻訳活動、翻訳活動をするにあたっての健康、音楽、ゲーム、食事、そういうものである。これは今までの私と昔から変わらないことだ。名声を得るようになったのは嬉しいが、それでもこれらには及ばない。

私が24くらいから、名声を得たいという欲望が出てきた。その願いは一時期かなり甚だしかった。だが振り返ればそれは若者的な欲望に過ぎなかったということが最近になり、なんというか呆気のない願いだと痛感するようになった。

X(Twitter)では特に多いが、名声を求めるようになったら終わりだというのを感じる。私が「高橋先生」と呼ばれたくて、それを目指して私が行動するようになったら、それは私の破滅と言える。それを目指して行動するようになれば、今まで本心から慕ってくれている人はいなくなるだろうし、他方で表面上はそう呼んでくれるにしても、薄っぺらい人間が集まってきて、逆に苦しむようになるに違いない。そして人々を操っているつもりが、逆に操られる事態になってしまう。

名声とかそういったものは、基本的にお零れで獲得するのが理想である。ひたすら仕事に励み、気づいたら自分のことを称賛してくれる人間がちらほら出てくる、それくらいがちょうどいい。人気が多く出れば、その分だけ誹謗中傷も出てくる。それに人気にあやかるために身動きが取れなくなることもある。なので定期的に人気を振り払うような行動をすることも必要なのかもしれない。ついてきてくれる人は必ずついてきてくれるだろうから。

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