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リトルワイズと25歳


最近になってリトルワイズという単語を知った。これは男女平等を初め、色々と価値観が当たり前のようにアップデートされており、当たり前のようにアップデートされているため、老害じみた偽善者めいた平等などわざわざ主張しない今の十代のことである。すでにもう身につけているのだ。

だが、私はその考え方がいつまで持っていられるかわからない。実をいうと私も男女はそこまで変わらないと10代までは思っていた。だが歳をとるにつれ色々経験し、特に最近のジェンダー絡みの論争を見るに男と女は違う生き物だと思うようになった。
どうしてこうなるかというと、人間は歳を重ねていくにつれその人間の在り方、長所にしろ短所にしろ、が際立っていくからである。10代の頃にも男女の性差はあるだろう。だがまだ若いが故にそこまで目に見える形としては感じられない。だから友情関係を築くこともできなくはない。
だが25を過ぎたあたりから性別や個性がどんどん際立っていく。だからわかってくるのは男女差ではない。究極的には自分と同じ趣味や考え方の人間としか関わらなくなっていく(少なくともプライベートでは)

「幼年期の幸福を助ける事情としては、なお最後に次のような事情がある。春のはじめにはすべての葉が色も同じければ形もほとんど同じように、われわれも幼年期のはじめには皆互いに似ていて、そのため立派に和合する。けれども成熟期とともに分散がはじまり、それが円の半径の分散と同じく、ますます大きくなってくる。」ショーペンハウアー

わかっていくのは男女の別だけではない。学歴が高い人間や低い人間も20歳のころだとアルバイトとかで交わり、「仲間意識」があったりする。その後全然違う職業につくにしても、その頃は何か一緒にいるという絆を感じるものだ。
だが、25を過ぎたあたり、日本社会でいえば社会の荒波がわかったあたり、からだんだんお互いの人生は交わることがないことに気づいていく。
件のリトルワイズもそうである。まだ若く互いに差がないから男女平等だと思える。だがその彼らもやはり年齢を重ねるにつれ色々と知っていくようになる・・・



更にいうのならそれだけではなく、人は結局は孤独な存在だということもまた、どこか嫌でも気づくようになる。それを直視し続けるか、誤魔化すかは人それぞれだが・・・。皆年齢を重ね、人生という緑もちらほらあるただ広い砂漠にいることに気づく。

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