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自分と「死」

自分が死を意識したのは高校一年生の頃だった。学校の帰りに自転車をぼんやりと走らせているとき大型トラックが私の横を大きな音を通っていった。ぼんやりとしていた私ははと目を覚ました。そしてその時体全身に「死」というものが襲った(肉体的な損傷はなかった)。

人が死ぬことはもちろん知識として知っていた。だがその時、「自分が死ぬ」ということを肌全身で感じた。楽しく過ごしている自分の人生に終わりが来る、自分というものがいなくなる、そのことを初めて感じた。

それ以後、私は楽観的な喜びを感じることは大きく減った。今私が味わっている喜びも死ぬことより味わえなくなる、そう考えると心から喜ぶことができなくなった。
私が「死」を最も意識したのは25歳の時であった。鬱になってしまい、自分の精神エネルギーがそれまでよりも大きくなくなった。もうダメだと思い、死にたいと思うことが多かった。でも結局死ななかった。それは立派だっただろうか。

「死」というものは私の心に影を宿したが、他方でそれは私という人間の存在が成長することにおいて大きな役割を果たしたこともまた事実であろう。「死」を意識するからこそ「生」について真剣な眼差しを向ける。光あるところに闇がある、闇あるところに光があるというセリフがアニメか漫画にあった気がするが、「死」を意識していからこそ、私は真剣に生きたのだ。あるいは「生」をマラソンに例え、「死」をそのゴールとも例えられる。マラソン選手ならペース配分とかでゴールを意識するのは当然であり、やはりその意味で「生」において「死」を意識するのが当然であろう。

それ以降も程度は減ったにせよ「死」を恐れていたが、今年私は古典翻訳シリーズの一作品ハズリット著『テーブル・トーク』の翻訳が終わり、私の中の「死」は変わった。私はもう「死」を恐れなくなり、明日交通事故に遭ったり癌にかかったりして死ぬことがあったとしても、私は恐怖を抱かない。
その理由は二つある。

一つは「テーブル・トーク」とそれまで翻訳と創作によって私というミームを作品上において残すことができ、死んだとしても自分は完全な「無」にはならないという確信ができた。子供を産み育てた人間は死ぬことに対してそこまで恐怖を感じなくなることが多い。それは自分の遺伝子を子供に託し、間接的に自分を残することができたからということと似ている。「テーブル・トーク」をはじめ私にとって今まで手がけてきた翻訳が子育てだったのだ。

もう一つは高みに達し、自分の全てを出し切ったからだ。「テーブル・トーク」は難しい作品で、これを完訳するには英語はもちろん、文学哲学についての教養を積みそれを発揮しないといけない。この作品を完訳したことにより私は全てを出し切った。そして届きたい高みへと辿り着いた。

私の心はもう平穏である。死を乗り越えた。そしてそれは畢竟、生を、人生を乗り越えたということだろう。とはいえ、死んでもいいと言っても自殺をするつもりはない。明日からもまた、翻訳と創作を続けていく。

だが、それでも私の本質的な・根源的な闘いは終わった。終わったのだ。

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